皿山になぜ異人館か? 幸平 皿山なぜなぜ13

有田町 異人館 PHOTO
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 ここは有田の人が「異人館」とよんでいる建物です。1876年(明治9)、田代助作という人が、外国からの客をもてなすために建てたものといわれています。
 田代助作の父は田代紋左衛門といって有田の本幸平で生まれた幕末の貿易商人です。
 1853年(嘉永6)。ペリーがひきいたアメリカの艦隊が浦賀(神奈川県)に入港し、徳川幕府に通商をせまりました。また同じ年にロシアの使節プチャーチンも長崎に来て同じ要求をしました。ペリーは翌年ふたたびやって来ると日米和親条約を結び、下田・函館が開港されました。その後、イギリス、ロシア、フランスとも和親条約が結ばれ、さらに1858年(安政5)には、修好通商条約がアメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスの五か国と結ばれました。それまでのオランダだけとの貿易時代は終わりました。
 これにともなって有田焼の輸出制限もゆるめられ、田代紋左衛門が貿易商として免許を受けました。紋左衛門は横浜と長崎に店を出し、「田代屋」として外国人の間で大きな信用を得るようになりました。1864年(慶応3)における長崎の田代屋は、年に一万両の商売をしたといわれます。また長崎には中ノ原の久富与次兵衛も店を出し、貿易商として活躍しました。同年のパリ万国博覧会では、田代、久富両店が持っていた多くの焼き物が佐賀藩の出品物として並べられました。
 明治時代になると、紋左衛門の長男助作は中国(当時は清朝)の市場開拓にものり出しました。このように外国と常に接していた彼が「異人館」を建てたとき、有田の人々はどう感じたでしょう。白壁土蔵造りの家並みの中に突如現われた洋風は、道行く人をアッといわせたにちがいありません。
 当時を知る人が誰もいなくなった今、その感想を聞くことはできませんが、新しいものを進んで取り入れる気風は今も有田にあります。この家にはいま田代家の子孫が住んでいます。
(尾崎葉子)

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