明治の小学生は? 白川小学校(有田小学校)皿山なぜなぜ17

白川小学校 PHOTO
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 1872年(明治5)、わが国最初の近代的教育制度である「学制」が定められました。同時に出された太政官布告で政府は。 「村に学問をおさめていない家がなく、家には学問をおさめていない者がなくなること」をめざしました。江戸時代には主に武士や貴族のものであった学問が、女子を含めたすべての国民のものとなったのです。
 有田でも、その年に白川学校(現在の有田小学校)が、翌年には外尾学校(現在の有田中部小学校)が開校しました。現在の小・中学校は義務教育で、その間、国民は権利として教育を受けることができます。けれども、学制ができてからしばらくは、小学校へ行く児重も多くはありませんでした。授業料が高かったこともありますが、親たちが、陶工の子は陶業を習い、農民の子は畑仕事さえ習っておけばよい、算数や習字など身につけても何の役にも立ちはしないと考えていたからです。
 ところで、そのころの小学校ではどんなことを勉強していたのでしょう。教科は、修身(今の道徳)・国語・算術・日本歴史・地理・理科・図画・唱歌・体操などでした。有田小学校では1888年(明治21)に英語をとり入れています。
 1890年(明治23)、「教育勅語」が出されました。臣民(天皇の家来という意味)である国民は、国の一大事にあっては命をなげ出し、天皇に忠義をつくす忠君愛国が日本人の守るべき最高の道徳だと、子供たちは教えられました。この教育は第二次世界大戦が終わるまで続きました。
 では、明治の児童はどんな服を着て通学したのでしょう。トッポーとよばれる木綿で織った筒袖の着物、手づくりのぞうりがふつうで、はだしの子もいました。明治にの終りごろから、卒業式など特別な日には袴をつけるようになりました。筆記用具には、石盤・石筆という、くり返し使える道具を使っていました。
(尾崎葉子)

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