なぜ煙突が多いの? 黒牟田・応法 皿山なぜなぜ21

黒牟田・応法 PHOTO
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 焼き物をつくるためには、焼くための窯が必要です。有田町でよくみかける煙突は、窯の煙突です。
 窯にはいろいろな種類があります。なかには電気窯のように煙突のない窯もあります。煙突は燃料や、窯の構造などによって違っています。江戸時代、焼き物は登り窯で焼いていましたが、登り窯そのものが煙突の役目をするので、ふつう煙突はなく、あってもごく低いものだったと考えられています。それでは燃料の変遷はどうなっているのでしょうか。
 江戸時代、登り窯で使った燃料は、「たたらぎ」とよばれる松の薪でした。松の薪はほのおが長く、焼いたあとに残る灰の星が少なく、特に赤松材がよいとされました。薪はたくさん必要とされました。江戸時代のはじめに、多くの人が焼き物作りを始めて、まわりの山の木をたくさん切り、薪にしたので、木が少なくなって困ったことがありました。そのために佐賀藩は命令を出して、焼き物を作る人を制限したりしました。そののち、瀋は山林を保護するために、木材や薪を不正に運搬するのを取り締まったり、木を切ったあとは植林することを義務づけたりしました。しかし、薪は広い置き場がいることや、山から切り出して運び、木の皮をはいだり、乾燥させたりと、たいへん手のかかる燃料でした。
 明治時代になると、ヨーロッパから石炭窯が伝わり、燃料も薪にかわって石炭を使うようになりました。石炭は薪よりも豊富に手に入り、多くの石炭窯が作られました。石炭窯にはレンガ造りの高い煙突がつけられ、たくさんの煙突が立ちならぶ有田の風景は焼き物の里を印象づけるものとなりました。1955年代(昭和30年代)ごろから、石油(重油)やガスが燃料として使われるようになりました。また電気を熱源として使うこともあります。有田では、伝統を守るために、まだ登り窯を使っている工房もあります。
(宇治 章)

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