本陣とはどういうところ? 中ノ原 皿山なぜなぜ38

有田町 PHOTO
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 江戸時代の有田皿山を描いた絵図に、1859年(安政6)の「松浦郡有田郷図」 (佐賀県立図書館蔵)があります。これには人家や登り窯などが一つ一つ丁寧に描かれています。そのころの家は多くがワラぶきだったようです。川の流れや町をとりまく山々などは、現在とほとんど変わっていません。道筋もそうちがいません。ただ道幅は今よりずっとせまく、その道をチョンマゲ姿の人々が焼き物をかついで行き来していたのです。はだしで遊ぶ子供たちの姿も見られたことでしょう。
 写真はこの絵図の中の「中ノ原地区」です。今もこの地区には大きな家が並んでいますが、江戸時代、ここには多くの焼き物商人が住んでいました。とりわけ、幕末の貿易商として活躍した久富一族が軒を並べていました。この一角を町の人は本陣とよびました。では本陣とは何のことか。
 1635年(寛永12)、三代将軍徳川家光の時に「武家諸法度」が改められ、参勤交代の制度が定められました。本陣とは、もとはこの参勤交代の時、大名が泊まった宿場の旅館のことをいいました。三十五万石の佐賀領から江戸までは約二百六十里(約千キロ)で、片道二千六百両という大きな費用がかかりました。これは藩の財政に大きな負担を与え。幕末のころ瀋主が佐賀へ帰る時、東海道五十三次の第一の宿駅である品川で、借金とりの商人に足止めされる場面さえありました。
 有田でいう本陣は、佐賀藩主が来て泊まった屋敷のことです。瀋主は御目附役、御進物方、医者、御側衆など大勢の家来を引き連れて皿山を見に来ました。出迎えたのは皿山代官所の役人と皿山の町人達で、町内のすみずみまでをきれいにし、道には白砂がまかれました。この白砂は陶土を水で調製した時に残った小さな砂状のものです。今では見られませんが、昔の皿山では特別な日にはよく見られた光景でした。
(尾崎葉子)

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