有田の町家の特色は? 中ノ原 皿山なぜなぜ39

有田の町家 PHOTO
有田の町家 PHOTO

 有田の町は磁器生産のためにできた比較的新しい集落です。その中心をなす内山は1828年(文政11)の大火のために一度は焼野原となりましたが、ほどなくよみがえり、おもむきのある工芸の町らしい町並みを残してきました。
 内山の町並みについて、有田町教育委員会は九州芸術工科大学の沢村仁・教授らに頼み、1979年(昭和54)から1984年(昭和59)にかけて調査をしてもらいました。それによって、磁器のふるさと特有の町家のしくみが浮かんできました。
 ふつう有田内山の町並みという時は、泉山の「上の番所」跡から岩谷川内にあった「下の番所」跡までの約2kmの通りを指します。いま人家数は約250軒。昔はもっと少なかったでしょう。江戸期までは人家の多くはカヤやワラぶきでしたが、明治期になって瓦ぶきが主となり、大正から昭和にかけて、軒の高い黒しっくい塗りの商家や洋館が現われたようです。時代の様式をとりいれながら、皿山の風格をつくってきました。
 商家はほとんどが妻入り様式でした。妻入りとは、建物の大棟と直角の壁面に出入り口を設け、これを正面とする造りをいいます。一般に間口が狭く奥行きが深くなっています。宅地の少ない皿山の本通りで店を構えるには、つごうの良い建て方でした。佐賀漕が商人に税金をかけるときに、間□の広さで金額を決めたことも理由の一つだとする見方もあります。一方、窯焼きの家は平入り(大棟と平行する壁面に出入り口がある)の造りが主でした。窯焼きの家は本通りに面していなくてもかまわず、敷地をぞんぶんに取ったのです。
 古い町家に入りますと、裏□まで続く土間がありました。トウリニワといい、ふつう川下にあります。部屋は間口から奥へ、ミセ、イノマ、ザシ牛の順に並び、ザシ牛の横がダイドコロでした。二階建ての場合、イノマの上は吹き抜けで、階上の部屋はミセ、トウリニワ、ダイドコロの上に設けられていました。
(原口 誠)

Related posts:

About the author: aritajin