昔の焼き物商の取り引きは? 中ノ原 皿山なぜなぜ40

伊万里 PHOTO
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 明治の初め、有田内山には窯焼き135人、赤絵職19人に商人51人がいたといいます(香関社史史料)。では江戸時代には、いつごろから、どれくらいの商人が、どのような焼き物取り引きをしていたか、となるとあまりよく分かっていません。
 この時代もかなり後になれば、たとえば有田の「百姓」(実は商人)が商売に出かけるため「近国往来札」という旅行許可の鑑札を十五枚申請したり1765年(明和2)、有田の商人が現われるようになります。商人たちは毎年下げ渡された鑑札を交替で使いました。そこで、たしかな数は分かりませんが、ある程度の人数に達していたことでしょう。しかし、近国(隣国)あたリヘはともかく、はるかに遠い国へ商売に行くことは無理ではなかったかと思われます・そうした遠い地方との商売はだれが行ったのでしょうか。それは伊万里の商人たちでした。
 伊万里の商人は、有田に磁器が作られるようになってから十数年後にはその姿を見ることができます。そのころ伊万里は、伊万里川の河口の港(正式には津とよばれる)として大きく発展しつつあったと思われ、それは、有田が焼き物を作る皿山として急激に伸びていた勢いと比例していたといってよいでしょう。
 この時代の終わりごろ、百人近くいた伊万里の焼き物商人(問屋)は有田の窯焼きから仕入れたものを紀州や筑前などから船でやってきた商人たちを相手に商売をしました。新潟や出雲その他の地方からも来ました。そして彼らは江戸をはじめ関東地方や東海地方、大阪や京都方面、山陽、四国はもちろんのこと、はるか遠い日本海沿岸の到るところで売り込みをしたのです。まれに伊万里商人自身が持ち船や雇い船で大阪あたりの問屋へ積み送ることもありました。
 伊万里や有田の商人は資金を窯焼きに貸し付け、できた品物を代わりに引き取ったのです。
(前山 博)

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