なぜ赤絵町というの? 赤絵町 皿山なぜなぜ42

赤絵町 PHOTO
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 江戸時代には、同じ職業の人たちが集まった場所に、その職業の名前をとって町の名」削とした所がたくさんあります。赤絵町も江戸時代に赤絵屋が集まっていた所です。
 赤絵町に赤絵屋が集まっていたのは、佐賀藩の命令だったと伝えられています。日本で初めて開発された赤絵の技術が他の場所にもれ、どこででも作れるようになってしまっては損をします。そこで、赤絵屋を11軒だけにして赤絵町付近に集めたといわれています。
 ではこの言い伝えどおり、本当にこのあたりに赤絵屋があったのでしょうか。
 この問題を解く糸口になる発掘調査が、赤絵町の有田郵便局の所で行われました。1859年(安政6)の有田の絵図には、この場所に三軒の人家が描かれています。もしかしたらその中に赤絵屋があったかもしれません。そう考えた有田町教育委員会は、局が建てかねることになっだので、あらかじめ発掘調査をしました。すると、予想通り、赤絵屋の家や赤絵窯が出てきました。こういった種類の遺跡が見つかったのは日本で初めてで、歴史を研究する上でたいへん貴重な資料です。
 研究者がもっと驚いたのは、この赤絵屋で作っていた赤絵製品までがたくさん出てきたことです。この中には江戸時代に輸出されて、いまヨーロッパなどの博物館やお城などに飾られているものと同じ焼き物もたくさん含まれていました。むかし有田郵便局の場所で作られていた焼き物が、遠くヨーロッパの方にまで輪出されていたことになります。有田はすでに江戸時代から世界に知られていたのです。
 この調査で赤絵町という町名は、やはり赤絵屋が集まっていたからだという可能性が高くなりました。遺跡から出土した焼き物を見ると質の良いものが多く、今の物と比べてもヒケをと‐ソません。昔の職人はすぐれた焼き物を作る技術を身につけていたのです。
(村上伸之)

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