眼鏡橋となぜいうの? 岩谷川内 皿山なぜなぜ46

眼鏡橋 PHOTO
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 江戸時代、有田皿山の道路は川で数か所がとぎれていました。札の辻から白川の代官所へ行く途中には橋がありましたが、ほかはすべて川の流れに置いた石を渡り。「飛び石」とよんでいました。飛び石は雨が降ったりして川の水かさが増すと渡れなくなります。白川の橋もはじめは土橋で、大雨のたびに流されていました。1811年(文化8)に石橋になりました。その費用は皿山の人たちの寄付でまかなわれました。
 さて、この橋は横から見ても普通のものと少しもかわらないのに「眼鏡橋」と書いてあります。なぜそうよぷのでしょうか。写真は掛けかえられる前のもので、アーチ状になっています。片目のめがねの形から「眼鏡橋」と名づけられ、形がかわっても名前だけは残つたのでしょう。
 江戸時代、この橋のたもとの岩谷川内に「下の番所」がありました。番所は正確には□屋番所といい、岩谷川内のほか、泉山、広瀬山、市ノ瀬山、嬉野口の四か所にありました。口屋番所の役目は①焼き物を運び出す人がもつ、皿山会所発行の切符を確かめる②焼き物土などの荷を持って通る人に決められた鑑札を確かめるなど、人と荷の動きを監視することが主でした。泉山と岩谷川内の番所は、内山の上・下の出入口でしたので、特に厳しく目かえられる前の眼鏡橋掛けを光らせました。それによって焼き物の技法がほかにもれるのを防ぎました。
 眼鏡橋に話をもどしますと、現在町内にはアーチ状をした石橋の、いわゆる眼鏡橋が上幸平の西光寺門前や、三空庵広場に残っています。もとの戸杓橋は二つのアーチ状をした完全なめがね橋でしたが、今はちがいます。
 1989年(平成1)に掛けかえられたとき、らん干の部分に町内の窯元が競って作った陶板がはめられました。窯元の作風をあらわす陶板で飾られたこの橋は、町をおとずれる観光客はもちろん、町の人も思わず足を止めるほどすてきな橋となっています。
(尾崎葉子)
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