戦争中は何を作ったの? 外尾山 皿山なぜなぜ50

手榴弾 PHOTO
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 1937年(昭和12)7月に始まった日嘸戦争が拡がるのにつれて、経済統制が進みました。1938年(昭和13)には焼き物の燃料である石炭が割当制になりました。石炭の産地に近い有田は終戦まで何とかなりましたが、愛知、岐阜などの東海地方は大変苦しみました。1940年(昭和15)には価格統制令で食器に公定価格が用いられ、配給制になりました。そのころから鉄などの輸入が難しくなり、大砲や軍艦を作るのに金属回収が国民に強制されました。その翌年に太平洋戦争に突入してからは、金属に代わるものとして焼き物による代用品が要求されるようになります。有田でつくられたのは、缶詰の代用品である防衛食容器、「まるろ」とよんだ、兵器(ロケットの部品や、ロケット用燃料容器)、戦場用の手榴弾、貨幣などです。
 その間の1942年(昭和17)企業整備令が発動されて、佐賀県では404の窯焼きや赤絵屋が66社に合同させられました。ただ、芸術品の製作者や技術保存を必要とすると認定された場合は、統制から除かれました。有田では芸術品の製作者として松本佩山が。技術保存として柿右衛門、今右衛門、香閲社、深川製磁、川浪喜作、満松惣市が指定されました。防衛食容器はふた付きの焼き物で、有田陶磁器株式会社(現在の有田物産)が主た「防衛食容器」焼き物で作っとなって藤津郡で、妬兵器は株式会社工栄社(本町)。香蘭社、岩尾磁器、有田製陶所(現在の有田タイル)、山本火鉢(現在の華山)の工場でっくりました。陶製手榴弾は硬式野球のポールくらいの大きさで、日本兵器窯業という新会社が有田と波佐見でっくりました。終戦間際には造幣局の要謂で協和新興(現在のクラフトタイル)が一銭陶貨を、そのほか深川製磁が海軍食器を、今右衛門窯が陶製水筒をつくりました。
 これらの生産には石炭や労働力が保証されましたが、それらの製品は実際には余り役立つことなく終わりました。
(松本源次)

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