久富子藻と鯨の碑

久富子藻と鯨の碑

 ここに設置されている久富興平碑は、号を「子藻」と言い、天保三年(1832)有田で久富興次兵衛昌常の六男として生まれました。
 天保13年長崎奉行の許可をえて「蔵春亭長崎支店」を開設し有田焼をはじめ鍋島藩の特産品を輸出しました。
 興平は豪荘、闊達で鋭い感覚と実行力をもって采配をふり、長崎支店内に鍋島藩の長崎事務所も設置されます。
 ここで大隈重信・江藤新平・副島種臣が寄宿してオランダをはじめ西洋事情を吸収しました。また石丸安世や馬渡八郎も英国留学へ旅立ちます。
 興平は、英人トーマス・グラバーと手を組み、鍋島藩所有の高島で石炭の採掘事業をはじめます。
 採掘された石炭は。和紙など特産品と共に小城鍋島藩所有の「大木丸」により中国・上海・福州・厦門をはじめ日本各地へ海上輸送されます。炭鉱は、のち三菱砿業高島炭鉱となりました。
 大木丸には、小城藩士・内山辰助が乗込み興平と共に海上輸送をするのですが明治三年(1870)10月8日北海道より千島列島を航海中に台風に遭い、氷海を漂流すること六か月、病にかかり明治四年6月21日釧路海岸近くの船中で亡くなりました。(享年41才)
 遺体は,とりあえず函館の小島武八家で仮葬儀が行われ地蔵堂に埋葬されました。
 興平は死に臨んで「われ死せば屍(死体)を海中に投ぜよ。志ならず誠に残念なり。この後、鯨にまたがって七つの海(世界各国)を巡らん」と遺言して息を引き取りました。
 興平の遺髪と剱は明治十年有田の平林伊平様に託され郷里に帰って来ました。
 この鯨の石碑は昭和七年(1932)久富李九郎により建立されましたが、題字を小城藩主、鍋島直庸様、撰文を谷口藍田様、揮毫を従四位の岡野正雄様にお願いしました。

資料:「白帆注進外国船出入注進」より「大木丸」図
 〔人物紹介〕
大隈重信-総理大臣、早稲田大学を創設。
江藤新墾-文部大臣、法務大臣など活躍。
副島種臣-外務大臣、内務大臣など活躍。
馬渡八郎-パリ万博で活躍。
グラバー-英岡のモーリスと炭坑に参輿。
鍋島直康-小城1 2代藩主、文武を奨励。
谷[]藍田-文政5年有田に生る。フルベッキと共に人材賛成に当る。
平成二十一年(2009) 久富桃太郎記す

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