この地蔵に何かいわれが? 三空庵広場・大地蔵 皿山なぜなぜ07

三空庵広場 PHOTO

 上幸平と大樽の境に「三空庵広場」とよばれる所があります。広場の中央にイチョウの木があり、その近くにお寺の出張所みたいな庵が建っています。江戸時代には、広場の西側の山手、つまり大樽寄りにあったそうです。このため、実際の「三空庵広場」とはイチョウの木より大樽側をいい、上幸平側を「地蔵さん」とよんでいました。
 「地蔵さん」とよばれていたわけは、今も地蔵菩薩立像が安置されているお堂が残っているからです。像は高さが191.5cm。材料はヒノキ。江戸時代前期に彫られたものらしく、背中に1825年(文政8)に京都の大仏師が色をぬったと記されています。
 実は、この仏像こそ有田の歴史の中で最大の惨事と語りつがれている「文政の大火」の生き?証人といえます。1828年(文政11)8月9日におきた大火災は、岩谷川内から泉山にかけた一帯のほとんどを焼き尽くし、死者は五十人とも百人を超えたともいわれます。
 岩谷川内から出火した火は折りからの強風にあおられて、有田皿山の家並みを次から次へと燃やしていきます。その火の手が大樽から上幸平へと移ったとき、ある信者がこの大地蔵を避難させようとしました。ところが重くて動かせません。そこで「地蔵さん、かるうて逃ぐっけん(背負って逃げますから)、軽るうなってくんさい(軽くなってください)」といいました。すると背中の大地蔵はすーっと軽くなり、信者は背負って逃げることができたーと伝えられています。実際に大地蔵の下部には、この時のものと思われる焼きこげの跡が残っています。さらに大地蔵の背に、「文政11年8月9日の子の刻にあたり、激しい風雨の中で大火となったので、徳三郎が駆けつけ屋敷に運んだ」と記されていることが最近の調査で分かりました。
(吉島幹夫)

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