焼き物を生む前の有田は? 小溝・清六 皿山なぜなぜ24

唐船城 PHOTO
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 1605年(慶長10)から10年(同15)ごろに作られた「慶長年中肥前国絵図」という地図を見ますと、現在の有田町の地域は旧曲川村(現在の西有田町)の一部に入っていて、外尾・すがの・ふるこぱ・境野・戸矢’大野などの地名はありますが、上有田地区の地名は書かれていません。言い伝えによりますと、かつての上有田地区には農家が数軒あって、土地の人は「田中村」とよんでいたそうです。
 西有田町は、かつでの曲川、大木、山谷の三村が一つになったものですが、その山谷村の牧地区に唐船城があり、有田氏が館をかまえて有田郷を支配していました。11世紀の中ごろ(1050年ごろ)、松浦地方(佐賀・長崎両県の一部)を支配するため、京都から移ってきた源氏の一族があり、松浦党とよばれていましたが、その一つが有田氏です。1577年(天正5)、有田氏は佐賀の龍造寺氏の部下になりました。さらに龍造寺氏のあとを引きついだ鍋島氏は、有田氏を佐賀方面へ移住させ、有田郷と伊万里郷を直接治めることにして、大木村に代官所を置きました。
 有田、西有田両町を有田川が流れています。その流域では、人びとは農業で暮らしをたてていましたが、1500年代の終りごろから清六や小溝あたりでは農業のかたわら陶器を焼くようになりました。陶器を焼く技術は唐津方面から伝えられたもので、清六や小溝で焼かれた焼き物は唐津焼です。ところが1616年(元和2)、泉山で磁器の原料となる陶石が発見されると、たちまちのうちに磁器製造がさかんになり、多くの人が集まってきて磁器を焼きはじめ、窯にたく薪にするため山の木を切り荒しました。そこで佐賀藩は。1637年(寛永14)に窯焼きの資格と窯を焼く場所を定め、それ以外の人や場所では焼き物を作ることを禁止しました。その結果、焼き物生産の中心は旧有田町となり、代官所も有田町白川に置かれました。
(宮田幸太郎)

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