黒髪山の大蛇退治は諸説ありますが、その中からひとつを紹介します。
昔、肥前国有田郷の白川の池に大蛇がすみ、ふもとの人たちをおびやかし田畑を荒らして暴れていた。里人たちの訴えで領主後藤高宗(たかむね)は退治に出かけたが、大蛇は現れなかった。
その頃近くに来ていた鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)が、朝廷の銘で大蛇退治に加わることになった。女性をいけにえとして差し出すことになったが、まんじゅ(まんじゅ)姫という娘が申し出たので、領主高宗は後家再興を約束した。白川の池のほとりに万寿姫が美しく着飾って座ると、まもなく水面に大波が立ち大蛇が現れた。姫に襲いかかると大蛇に為朝が八人張りの強弓から放った大鏑矢(かぶらや)が右目を射貫き、高宗が三人張りの弓で放った矢が眉間を貫いた。大蛇は、軍勢に追われてのたうち回りながら西有田町の龍門の岩屋(洞窟)に向かって必死に逃げたが、力尽きて竜門峡の谷底へと落ちていった。そこに丁度通りかかった行慈坊(ぎょうじぼう)という盲僧が異様な気配を感じ、短刀で大蛇にとどめを刺した。
その後、万寿姫の願い通り家は再興され、姫は良縁を得たといわれる。この伝説には盲僧と蛇との古い信仰的は関係も秘めているようです。黒髪山頂には大蛇が七巻半も巻き付いたといわれる天童岩がそびえ立ち、黒髪山周辺に残る地名などから大蛇退治に様子がうかがえます。
大蛇が棲み家(すみか)にしていたという竜門の岩屋(どうくつ)、陣幕を張って矢を放ったという幕ノ頭山、大蛇に当たった矢が跳ね返って刺さったという矢杖、戸に当たって刺さった戸矢、酒樽を持ち寄って祝杯を挙げた大樽、中樽、小樽、大蛇がいなくなって住みやすくなった佐賀県武雄市山内町の住吉、大蛇の鱗が重くて馬が悲鳴を上げた佐賀県伊万里市大川町駒鳴の駒鳴峠など。
有田館
大蛇退治伝説
永万元年(1165、ほかに久寿元年など複数の説あり)、有田郷白川の池に大蛇が棲みついた。七俣の角を持ち、黒雲に乗って黒髪山に飛行し、火を吐くこの大蛇のため、命を失ふものも出 た。里人は稲を刈ることもできず、領主の後藤高宗に大蛇退治を懇願した。しかし高宗が手勢 を引き連れ向ふと大蛇は姿をくらまし、退治できない。高宗が朝廷に相談すると、鎮西八郎為朝 と協力するやう勅命が下った。為朝や家来一同大勢で策を練ってゐると、誰とも知れぬ者が 美女を囮に大蛇を誘き寄せるが良からうと申し出、姿を消した。これは黒髪の神の啓示と喜ん だ一同は囮の生贄となる美女を求め、恩賞は望みどほりと高札を出した。西川登の高瀬に 万寿姫といふ16歳の娘がゐた。父松尾弾正を亡くし、母と弟の小太郎を苦労して養ってゐた 万寿姫は、この高札を見、お家再興のためと自ら生贄となることを申し出た。そして白川の池 には高さ10メートルもの水棚が造られ、万寿姫がその上に座した。間もなく腥い風が吹き、 大蛇が姿を現した。領主高宗が三人張りの弓に十三束の矢を番へ放つと、見事大蛇の眉間を 捉へ、血煙が舞った。 しかしこれで大蛇は火の如く怒り、万寿姫をひと呑みにせんと立ち上がった。ここで続いて、 八郎為朝が八人張りの重藤の弓に十五束八寸口の矢を番へ、放った。この矢が大蛇の右眼を 貫き、怯んだところを将兵が一斉に雨霰と射たてた。この猛攻撃にさしもの大蛇も遂に逃げ出 すことになった。さらに高宗らが追ひ立てると、竜門へと逃げる大蛇は谷底へ落ちていった。 ところで梅野村に行慈坊(海正坊とも)といふ座頭がをり、ちゃうどこの時竜門の谷を通りかか ってゐた。にはかに岩頭から転がり落ちて来た大蛇に海正坊は驚いたが、懐剣を引き抜き、ここ が急所の喉であらうと突き立てた。これがとどめとなり、大蛇は息たえた。大蛇退治祈願の願成 就にと黒髪神社で流鏑馬の奉納がなされ、今に続いてゐる。
(『武雄市史』下巻)に加筆修正。
(宗)黒髮神社