第一章 有田はいつどうして出来たか
(一)泉山磁石の発見
有田には古くから源為朝の黒髪山大蛇退治の伝説や唐船城の松浦党有田氏のことなどが語りつがれているのだが、この町史物語では今の有田町やその周りが何時どうして出来たのか先ず考えてみよう。
焼物の里有田の起こりは元和二年(一六一六)の李参平の泉山石場の発見からとなっている。そこで、最初にこの李参平の足跡を追うことにする。
豊臣秀吉の朝鮮侵略(当時は征伐と言っている)戦争は文禄元年(一五九二)四月に始まって、翌年には和議が成って軍隊も引き揚げている。この戦争を文禄の役と言う。だが、この平和は三年しか続かないで、慶長二年(一五九七)一月、再び朝鮮へ出兵している。 即ち慶長の役である。
文禄の役では、鍋島直茂の佐賀軍は伊万里港から出発、加藤清正軍に従って朝鮮の東方面、即ち日本海側を北上して北緯三十八度緑を越えている。慶長の役では、直茂にその子勝茂も従軍して今度は西方面、即ち黄海側を北上した。慶長三年(一五九八)八月には全羅道の全州を陥れている。そして、更に忠清道の公州を目指して進軍した。黒田長政の筑前(福岡)軍は左を進み、鍋島軍は右を進んだ。その途中公州の手前の東南に当たる鶏竜山付近で出会った韓国人三人に道案内をさせた。その間に公州は黒田軍によって陥落した。だが、八月に秀吉が死去した為、引揚げ命令が出されたのである。
引掲げに当たってこの三人の道案内の功を労った上、その職業を訊ねた処二人は農業と答え、一人は土から陶器を作っていると答えた。これが李参平である。このように日本軍に協力した為、引揚げた後で報復されるかも知れないから、一緒に日本に渡って製陶の業を続けてはどうかと鍋島軍から勧められて、李参平はためらわずにそれに従った。そして、その他の陶工など数十名と共に同行することになったのである。物の本にはこのことを連行されたと書いたのがある。この連行と言う語は、本人の意思は考えないで強制的に連れて行くと言う意味である。だが、李参平の場合は決して強制したのではなく、本人もそれを希望したと推測されるからこの物語では同行とするのである。 鍋島軍が、李参平をリーダーとする陶工達と共に伊万里港に帰り看いたのは十二月初めだった。この陶工達は鍋島軍の参謀長格の多久安順の軍勢と同船していたので、李参平はその一部十数名とこれに従って佐賀へ向かった。他の者達は乱橋(三代橋)辺と武雄領の板野川内に住み着いた。
乱橋には文禄の役の時連行されたと言う七十五人の韓人陶工達が窯を開いていたのに合流したのが一部で、他の一部は武雄領の内田村に既に多数の同国人達が開窯していると聞いてそこを目指した。だが、その道中で良い原料でも発見したのか、内田まで行かないで板野川内に定着した。
李参平はこの時二十才だった。一員は佐嘉城まで同行してここで帰化することになった。出身地忠清道鶏竜山の金江州(一般には島とも称した)の金江をとって金ケ江とし、参平の名を三兵衛に改めた。しばらくは佐嘉城下に住んだ。だが、言葉など不自由なので同船した縁で多久安順が預かることになって皆多久に移った。
多久では領主安順の計らいで後では唐人古場と称した辺りで窯を築いて色々試みた。だが、気に入った器が出来ないので、高麗谷や大山など転々として製陶に従事した。多久の人達は良い焼物だと褒めてくれたが、もともと白磁を作りたい三兵衛には満足出来なかった。その頃彼は安順の世話で日本の女と結婚するなど手厚い保護を受けている。
慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の戦争で大勝した徳川家康の天下になって同八年(一六〇三)には江戸に幕府が出来た。佐賀では同十三年(一六〇八)に竜造寺から鍋島に主が変わって鍋島藩が確立している。そして、元和元年(一六一五)には、今まで有田氏の領地だった有田郷一帯は藩命で多久安順の支配の下に置かれることになった。
これを機会に以前から磁器の原料を探したいという三兵衛の願いを安順が許したのだろう。一行十八名で乱橋へ向けての三兵衛の探索の旅が始まった。有田郷乱橋一帯、即ち乱橋、黒牟田、小溝、清六の所々には文禄の役後に移住した組に、慶長の役後金江島からの連中が李参平と別れてここで製陶を続けていたからである。
一行は先ず板野川内に定着している同郷の陶工の許に草鞋を脱いで十七年ぶりに会っている。それから泉山の隠道から小樽を通って大谷、岩谷川内を経て乱橋に到着した。早速田畑を開墾しながら窯を築いている。この窯は幅が三尺五寸(一米余)の小さなものだった。半年ばかり色々と焼いてみたものの彼が求めている白磁器とは程遠い陶器しか出来なかった。
そこで、彼は一人で板野川内に戻って、ここを根城にして付近の山や野を磁器になる石を探して回った。そして、遂にこれはと思う石を発見したのである。場所は堺松の付近、即ち泉山の石場だったのだ。早速板野川内で試みに焼いたところ、正に彼が求めるものであった。元和二年(一六一六) のことである。 彼は直ぐ板野川内から連れて来た者達と窯を築いて磁器の製造を始めた。これが小樽古窯である。石場には近いものの、小樽は水の便が悪いので、適当な所を求めて付近の山野を歩き回った結果川に近い天狗谷を選んだ。そこで、白磁発見のことを多久安順に報告すると共に、乱橋や多久に残して来た者達を呼び寄せ、それに小樽から付いてくる者を加えて天狗谷に窯を開いた。
しかし、移るのを断わったのか、或は三兵衛の指示によってか若干の陶工が小樽古窯に残った。現在中樽墓地に残っている「高麗国帰化陶工開祖の墓」とあるのに眠っているのが、小樽に残った帰化陶工達である。
(二) その周りの状況
後では内山と称ばれる地域はその東の端、即ち隠道の山中に数軒の人家があるだけで田中村と称していた。又、外山と称ばれるようになる一帯は、西端に当たる清六、小溝、乱橋、黒牟田の辺りには前に述べた通り一五九三年頃から韓人陶工達が開墾しながら陶器を作っていた。又、その東には既に一つの農業集落が出来ており、南には金山があったのだ。
石場発見の二十数年前、この外山の東端に当たる荒野に一群の流浪の民達が定着して開拓を始めている。一五九三年からその翌年の間である。
豊臣秀吉が名護屋城に本営を構えた時、加賀百万石の大守前田利家も徳川家康等と共に秀吉に従って来た。 現在は江北町の一部であるが、佐留志という集落に館があって当時は佐留志城と称していた。この主は前田利家とは先祖が同じの前田伊予守家定である。
先祖というのは尾張国海部郡前田村の荒子城主だった。鎌倉時代にその子孫に当たる前田忠保は肥前に下って佐留志の城主となった。戦国時代の末には有馬氏に仕えた。後で竜造寺氏から鍋島氏と主を変えている。文禄の役では老齢の為、出征しないで国に居たので、前田利家を名護屋城に訪問して、兵糧などを進物した。利家は非常に喜んで折角だからと秀吉に紹介し謁見させた。
朝鮮から帰降してこの事を知った鍋島直茂は自分には断わりなしで勝手のことをしたとひどく怒った。
そして、その家禄を没収して追放したのである。一族の一部は姓を野村というのに変えて残った。だが、伊予守以下主なる一族郎党は佐留志を離れて流浪の旅に出たのである。その時の人数ははっきりしないが、所領の禄高が千五百石というから五十名足らずと推察される。
そして、鍋島氏の力が未だ十分に及んでいない有田郷曲川村の東の荒野にたどり着いて、そこを開拓して一つの農村を作った。現在の外尾町を本拠として丸尾、本町、桑古場、大野、菅野辺りまでの集落だったので、この一帯を新村と称したのである。新村の名は明治二十九年有田村になるまで続いている。 石場発見の頃か、又はその数年後かに、有田の南西端で長崎県波佐見との境になる古木場一帯に金鉱が発見されてゴールドラッシュがやって来たのである。だが、この金山を探索した幕府の隠密(密偵)の報告によれば、寛永四年(一六二七)にはもう金は産出されていない。鍋島勝茂の年代記によれば、その二年前の四月から翌年十月まで約一年半の間に、金一貫五百二十三匁、銀十三貫八百四十五匁が産出され、山堀り人数はおよそ百人とある。
隠密報告書には廃坑同然のこの地域に人家は七百戸、町の造りも見事でまるで城下町のようであり、周囲三里(十二キロ)に柵を巡らせ、口屋番所があって出入りを監視している。
金山の坑道は六十もあり、最盛時には六・七千人ほどの人口という。又、金山の繁栄につれて番所の裏の丸山には遊女町が出来ている。そのため、丸山の地名は遊女町の代名詞になって、後年長崎に出来た色町を丸山と称したという話は今も残っている。
この報告書が正しいとすれば、金鉱発見から僅か二・三年でこんな町は出来る筈はない。恐らく十年近い年月を重ねて出来たのだろう。とすれば石場の発見と同じ時分から始まったと想像出来る。しかし、幕府に届ける時にわざとその期間を短くして、産出量も少なくしたのではなかろうか。 というのは、この届けによって産出した金銀は全部幕府から藩へ下げ渡されているからだ。
ともあれ、これほど繁栄した金山の廃坑後その労働者達はどうなったのだろうか。一部はこの地に残って農業に従事しており、又は波佐見の金山へ職を求めている。だが、大部分の人はその特技を生かして石場の採石夫になったり、窯焼の荒仕子(雑役夫)などになったのだろう。一面ではこの余った豊富な労働力が創業期の有田の窯業を飛躍的に発達させたとも言えよう。
(三)深海家と家永家
石場の発見で磁器の製造が有田で始まったという情報は武雄領内田村の深海一党にも伝わっただろう。元和四年(一六一八)リーダーの宗伝死去の後、受け継いだ妻の百婆仙は寛永六年(一六二九)に内田で磁器製造を試みた。だが、原料が軟質のため、失敗続きでとうとう磁器は出来なかったので、領主を通じて本藩に願い出た有田移住が許された。そこで、百婆仙は同族工人九百六十人を引き連れて有田の稗古場へ転住したのである。寛永七・八年のことである。
さて、この深海一党はどうして渡って来たのかと言えば、文禄の役が終って鍋島軍が引揚げる時、鍋島軍の奉謀長格だった武雄領主後藤家信が藩主の命令で、慶尚道金海から連行したのが深海宗伝である。 この役に従軍していた武雄広福寺の別宗和尚と一緒だった。その頃日本名を新太郎と称していた宗伝は別宗の徳を慕って仏門に入ったので、別宗から宗伝の法号を授かったのである。
数年間は広福寺の門前に住んでいたが、家信から内田に土地を貰って陶器を焼いた。その時日本の姓を与えようと出身地を訊ねた処「シンカイ」と答えたので、シンカイ即ち深海を姓として与えた。だが、深海という地名は朝鮮には無いから、中島浩気氏は宗伝がキンカイと発音したのを後藤の方でシンカイと聞き間違ったのだろうと推理している。ハングル音では金と深とはよく似ているという。
有田焼の起こりに韓人の金ケ江一党と深海一族とが主な役割を果している。
だが、韓人でない家系がもう一つある。それは家永家である。佐賀郡高木瀬村の土師(瓦や土器などを作る職人)家永彦三郎が藩主の命令で名護屋城の瓦を現地で一手で焼き上げた。その時飯などを盛る土器も作ったとみえる。秀吉は文禄元年四月に名護屋に入城したが、その後大阪を往復したことがあった。その大阪から名護屋への通り道の現在の大和町尼寺の付近で、直茂の継母が握り飯の接待をした時、それを盛った土器が秀吉の目に止って、抹茶碗などの土器を彦三郎に作らせている。その品々が秀吉にはひどく気に入ったのだろう。その年の十二月には家永へ「土器の技術が素晴らしいから、九州名護屋での土器作り最高責任者に命ず」という御朱印状(武将が朱印を捺した公文書)を下した上、壱岐守方親と名乗らせたのである。 その後、朝鮮に渡って鍋島軍の捕虜になっていた韓人陶工の範丘から焼物の技術を口伝えで習得した。そして、直茂の命によって範丘他数名の陶工を連れて帰国した。直ぐ秀吉に拝謁して朝鮮から持ち帰った焼物を献上した上、近くで窯を焼く許可を得ている。この陶工達の出身地は南鮮三浪津近くの金望山の辺りという。
この後に帰陣した直茂の命によって佐賀の金立山に築窯した。それから間も無く方親は秀吉から頂いた司役(最高責任者)を弟の方辰に譲って自分は筑後の国蒲地村に移って、そこの藩主田中吉政に仕えて献上土器の御用を勤めている。
金立山には良質の原料が無いので、孫の庄右衛門は慶長末年(一六一四)伊万里郷の藤野川内に移って製陶を始めた。その後有田郷小溝に転居している。そして、泉山石場発見で活気に溢れている内山の白川山に移った。
安永二年(一七七三)にその子孫が佐賀藩庁に提出した書状には自分達の先祖が石場を発見して白川山の天狗谷という所に窯を築いたとある。 この天狗谷窯というのは、李参平の窯と言われる天狗谷窯ということではなく、その一帯の地名であり明治初めまで家永家の屋敷と工場のあった辺りの意味だろう。その先祖が石場を発見したというのは、窯が李参平の窯と同じ場所だから思い違いしたのではなかろうかと思われる。
(四)その他の石場発見説
この家永庄右衛門の他に名場を発見したと言う人物がもう一人いる。その名を高原五郎七という。それは「酒井田柿右衛門家文書」の中にあるから、現代文に直してみよう。
「覚書の二 享保八年(一七二三)
高原五郎七という人は豊臣秀吉の家来で加藤清正が文禄の役の時朝鮮へ連れて行ったが、その後大坂方が没落するなどの事情もあって彼は元和三年(一六一七)に南川原にやって来た。そして、その辺の川に明礬が流れているのを発見し、これはきっと上流に上士があるに違いないと考えたので、川筋を伝わって行った処泉山の白土を発見した。そこで、その土で試みに焼いたら南京手の磁器が出来たのである。その業は今日まで続いている。」 この覚書は李参平の石場発見から百七年後に書かれたものである。明礬によって白磁砿を突き止めたことや、南京手の磁器を作ったということなどは、その他の諸説との関連もあるので次節で述べる。
この五郎七とは同一人とも考えられる五郎太夫の祖父に当たるという伊東五郎太夫祥瑞という人物が永正八年(一五一一)遺明使に従って明国に渡り、景徳鎮で二年余り製磁の法を習得して同十年(一五一三)に帰朝すとある。この祥瑞が有田焼の開祖だという説が明治初年頃の有田にあったようである。明治六年頃、有田小学校の初代校長江越礼太と当時の有田戸長(明治二十二年の町村制になるまでの町村の首長)徳見知愛とが協力して皿山風土記というのを作って、生徒必読の書とした。
その中に
「さて焼物の初めより、今に三百七十年(三百六十年が正しい)永世(永正が正しい)頃の其のむかし、五郎太夫祥瑞とて伊勢の人とも支那人ともいふはたしかに知らねども支那の陶器の製造を習い覚えてこの郷の善き其の土を発見し余多の品を造りたる。」とある。
泉山石場が実際に発見された元和二年よりも百年も前に発見されたというこの説は誤りだと指摘した横尾謙(谷口藍田の高弟)は次の通りに訂正した。
「朝鮮陣の其の時に、まつろひ来つる韓人の金ケ江村の李参平 小城の郡の多久村に 焼物造り始めしに 良しき土のあらざれば移りし有田の乱橋ようやく谷間をさかのぼり今の有田の地に来たり 始めて得しは いつまでも尽きせぬ 石の泉山」
これについて中島浩気はその著書で、先に皿山風土記を作った江越も徳見も共に小城藩士であり有田に移住してから日が浅かったので思い違いしたと思われると言っている。
だが、一説では祥瑞は石場の磁石ではなく、明国から輸入した磁石で磁器を焼成したとも言う。いずれにしてもこれで五郎太夫祥瑞の開祖説は消えた。又、柿右衛門家文書には五郎太夫ではなく高原五郎七とある開祖説も次節で述べることによっても分かると思うが、これも全く信用出来ない説である。
(五)李参平のことについて
今日では泉山白磁砿発見者は李参平だというのが定説になって不動である。だが、鹿児島での韓人陶工の子孫である沈寿官氏が当時の朝鮮には唐臼はなかった。それなのに有田では李参平の時代に生まれている。従って李参平は中国人ではなかったかと言うのである。又、最近では有田ケーブルネットワークの西山峰次氏は陶磁全集の解説の中の左の一文を取り上げている。即ち「連房状階段式登窯の遺構が、未だ韓国では発見されないことは、通説のように天狗谷など有田の諸窯が、はたして李朝陶工によって築かれたものであるか疑問を残すのではないかと思う」と。
又、福岡の泉満氏はその「新李参平物語」の中で、二十才の若さで陶工達のリーダーになったということからして李参平は韓国では両班(李朝で文武の官僚に任ぜられた特権的身分。 文官は東班、武官は西班とに分けられている)ではなかったかという説を言い出している。だが、この説については韓国側で調査した結果、彼が両班であったことは否定されている。
右の諸説を綜合して一つの仮説が生まれる。彼が日本に渡来して来た時は二十才であった。両班という身分ならともかく一賎民がその若さでリーダーになったということ。又、当時の韓国には製土用の唐臼も、焼成用の連房状階段式の登窯も存在しなかったのに、彼は有田でこれらの設備を実現しているということ。それに鶏竜山付近にはまだ磁器は生まれていなかったと思われるのに、彼は多久や乱橋付近の陶器原料には満足しないで磁器原料を追及して止まなかったこと。又、柿右衛門家文書に五郎七が川に流れる明礬で磁器石の所在が分かったとあるが、この人物は果たして五郎七だろうか。
これらのことから李参平は当時世界で最も進んでいた中国の製陶技術を習得し、磁器の良さはもとよりその成分まで十分に知っていたからこそ、泉山の石場を発見し得てそれを唐臼や登窯で活用することが出来たのであろう。そして、このような技術を持っていたからこそ二十才の若年で賎民の身分でもリーダーになれたのではなかろうか。
「肥前陶磁史考」によれば、景徳鎮で陶技を習得した者が石場を発見したという二つの説があるという。一つは、祥瑞の孫という五郎太夫が文禄三年(一五九四)十八才の時期に渡って二十三年も留まり、元和二年(一六一六)四十才の時帰朝したとある。
一つは、永正八年(一五一一)伊勢国(三重県)の人伊東五郎太夫祥瑞が遣明使に従って景徳鎮に行き、製磁の法を習得して同十年(一五一三)帰朝したとある。 即ち祥瑞は景徳鎮に二年間居たことになる。
前説の文禄三年は休戦の年である。五郎太夫と同一人と思われる高原五郎七は加藤軍に従軍していた豊臣の家来で、その時当然引揚げたとしか思えない。若しこれが韓人であれば、明軍の引揚げの時に同行していても自然であろう。
その二年半後の慶長二年(一五九七)一月には再び戦争になって、又も明軍は韓国救援に出動している。その時先の韓人が明軍に従って帰国したとすれば、景徳鎮に居ること二年余りだから後説の年と合致する。前説では景徳鎮に二十三年居て元和二年(一六一六)に帰国したとある。柿右衛門家文書では五郎七の泉山発見は翌元和三年となっているが、この五郎七こそ実は李参平の仮の名ではなかったかとも思える。
この人物の景徳鎮居住は前説で二十三年、後説で二年だからその差約二十年間は、李参平が鶏竜山に帰って、その翌年鍋島軍に従って伊万里に上陸、佐賀と多久に十八年を過ごして石場を発見するまでの間に相当する。
こんなふうに考えると、泉説のように両班でなくともその技術でリーダーになれたし、唐臼や連房状階段式登窯については景徳鎮で習っている筈だから、沈寿官氏の中国人説も問題でなくなる。それに磁器に対する知識と異常とも言える執念も理解出来る。
この十月十五日に多久で開かれた李参平についてのシンポジュームに参加した、朝鮮の歴史に明るい作家の角田房子氏は、賎民に過ぎない一陶工が当時の王朝の姓である李を名乗ることはあり得ないと言う。だが、これもこの陶工が中国に渡った証になろうかとも思う。 というのは、明軍又は景徳鎮では姓がなくてはおかしいと言うので、韓人の代名詞という意味で王朝の姓の李を便宜的に参平に名乗らせたのではなかろうかと想像出来るからである。
又、前説の五郎太夫との年令差は、文禄三年に五郎太夫十八才、李参平十六才だから、僅かに二才である。このくらいの年令差は当時では問題ではない。
祥瑞や五郎七が作ったという南京手の焼物は実は明国からの輸入品であって、祥瑞というのは、その器の由来を宣伝するために創作された架空の人物に違いない。中島浩気は、祥瑞の有田での足跡を求めて肥前の各山を巡歴したが、全然見当たらなかったとその著に書いている。正に夢の人物である。
(六)有田皿山の成り立ちとその周り
元和二年(一六一六)から二十年目に当たる寛永十二年(一六三五)までの間は有田の窯業が急速に発展した時期である。どうしてこの年で区切るかというと、佐賀藩領の最西端の山中に突然現われた窯焼のため、その辺りの姿が全く変わってしまったこと。又、この新しい産業が藩財政の支えになるとして、佐賀藩は、有田代官の前身である西目(佐賀西部の意)横目付(監察官)に後で初代代官になる山本神右衛門重澄を任じたからである。
この五年前には百婆仙が深海一党九百六十名を引連れて稗古場に移って来た。又、同じ頃家永一族も小溝から白川に移住している。それに金山廃坑で失業した沢山の人達が職を求め内外皿山へ流れて来て、金ケ江や深海、家永などの窯に入り込んだに違いない。そして、器用な者はそこで窯焼の技術を習得して自分で窯を始めたのだろう。 独立といっても窯をめいめいで持つのでなく、貸し窯を利用するので、唐臼とろくろがあれば出来たからである。というのは、この二年後に有田郷では日本人陶工を五百人以上(伊万里郷と合計すれば八百二十六人)を追放したけれども、十年後の記録にはその頃でも百五十五の窯焼がいたとあるからである。
どうしてこんなに大量の整理をしたかというと余りに急速に成長した窯焼達が燃料にするため、無茶苦茶に山野の木を伐り取ったので、辺りの景色も変わってしまったからである。こんなに大量の燃料を使用したからには原料である石場の磁石の採掘もすごい勢いだったに違いない。発見した功績で石場を管理していた金ケ江三兵衛は、その頃では窯焼に専念するため、管理の役を次子清五左衛門に譲るという盛況ぶりだった。
登窯は丘陵の傾斜に築くから、その地域一帯を山と称するようになった。その頃は、歳木山、小樽山、中樽山、大樽山、上白川山、中白川山、下白川山、稗古場山、岩谷川内山等の内山と外尾山、黒牟田山、応法山、南川原山などの外山が出来上がっている。
山と称した窯業地の外に当時の曲川村の内乱橋、小溝、清六の辺りには四十年も前から陶器を焼き続けて磁器へ転向しなかった帰化韓人達の窯も残っていた。
四十年前佐留志から流れて来た前田一党が開拓した新村は豊かな農村になっていて、金山廃坑の後も戸矢、境野、古木場に残ってその地を開墾した人達は新村に合流したのである。 現在の本町、昔の外尾宿は皿山の所属になっている。これは宿場として内山と外山との連絡の場所ということからではなかろうか。正保四年(一六四七)に皿山代官所が設けられてから、行政区分や藩の行政についての法令などが制定されている。石場発見から僅か二十年の一六三五年当時、有田皿山は全国陶産地に先駆けて日本第一の磁器特産地になることが出来たのである。しかもその南西の平地一帯は既に豊かな農村になっていたのである。
第二章 佐賀藩の保護政策と色絵の始まり
(一)韓人陶工の保護と同化策
皿山代官所が設置される正保四年(一六四七)より十年前の寛永十四年(一六三七)から、当時の西目横目付山本神右衛門重澄は有田郷や伊万里郷の各所に窯が次々に出来、その燃料にするため山が伐り荒らされていると、実情を藩庁に報告した。
これを受けた藩主は多久美作守に、朝鮮から渡来した者とその子孫以外で製陶に従事している日本人は追放するよう命令した。美作守は神右衛門に現地を調査させて日本人でも由緒(いわれのある来歴)ある者は藩主に報告した上で、美作守が免許証を与えて残し、その他の者はすべて追放せよと命じた。家永一族は由緒ある者として追放を免れた。だが、それ以外の男五三二人、女二九四人、合計八二六人が追放されたのである。その部落は有田郷で七ケ所、伊万里郷で四ケ所に及んでいる。 「皿山代官旧記覚書」という記録の中に、多久長門守が朝鮮から連れて来た者の中に暇を乞うて優秀な磁器を焼く者がいた。この韓人が「私が一手に焼きものをしたいので」と、日本人陶工を追放してくれと願い出た。その結果、日本人は窯焼の職を営むことを禁止されたと、ある。ここでいう韓人は正に李参平のことである。
表面の理由は山林が荒されるのを防止するためとある。だが、事実は、その頃陶技を覚えた日本人が独立して窯焼を自営する者が続出するようになったため、金ケ江や深海等の韓人窯焼を脅かす傾向が著しくなったことを憂慮した金ケ江三兵衛の願い出によるものであった。
この追放令を実行した山本神右衛門はその十年後の正保四年(一六四七)には初代の皿山代官に任命されている。
それまでの間彼は藩と皿山窯焼との間に挟まれて、藩が要求する運上銀(江戸時代の税金)で若し皿山が存続出来なくなれば朝鮮からの渡来人たちの生活はどうなるかと心配すると共に、藩の財政を支えるための運上銀も増額しなければならぬと大変苦心している。だが、その努力によって双方とも何とか立ち行くように解決した。
この功によって彼は初代代官に任命された。武士道とは死ぬことと見付けたりで有名な佐賀論語と言われる「葉隠」を田代又左衛門へ口述した山本神右衛門常朝はその子である。
泉山石場を発見した功績によって、その支配を金ケ江三兵衛は藩から委任されている。従って支配人の彼だけは無税で採掘を許された。他は皆冥加金(税金)として僅かだが上納しなければならなかった。 彼には日本人の妻との間に二人の男子がいて、兄の与助左衛門は専ら製陶の方を担当し、弟の清五左衛門が石場支配の任に当たった。
そして、板野川内などで彼に協力したその一党三十数名の中から選ばれた七人は金江島の出身だったので、金ケ江の姓が与えられた。他に金江島以外の出身だったのか弥三右衛門というのには徳永の姓が与えられている。又、多久美作守の代になってから多久氏の名被官になって小禄ながら一様に扶持米(給与)を貰っている。名被官というのは役儀を免除された被官(江戸時代、領主や土豪の家来で、屋敷地の一部と田畑を分与されて、手作りしながら主家の軍事、家政、農耕に奉仕する者)で苗字帯刀も門構えも許されている。
三兵衛以外の金ケ江一党もめいめい日本の女を妻とし、日本名となって完全に帰化した。
だが、文禄の役の時連行された深海宗伝は韓国から妻を連れて来ている。即ち百婆仙である。彼女は明暦二年(一六五六)九十六才で死去しているから、日本に渡来した文禄二年(一五九三)は三十三才の時である。佐賀領に連行された韓人達は宗伝のように妻を同伴した者は稀であったと想像
される。深海一族の主なる者は後藤家信の被官となり、金ケ江一党と同様に日本名を名乗って日本人の女性を嫁にしたのである。
このように韓人陶工等に対する藩の保護政策は一面に於ては同化政策でもあった。即ち日本姓を与えて武士として待遇すると共に日本人女性との結婚を積極的に勧めて混血による同化を計ったのである。これは慶長の役の時島津藩が連行した韓人陶工等への政策とは全く異なっている。 慶長五年(一六○○)薩摩の串木野辺くの無人の浜に漂着した韓人の一団があった。それは沈姓を初めとし十七の姓を持つ七十人程の男女である。全羅北道南原城が慶長二年(一五九七)八月、宇喜田秀家を総大将とする日本軍主力によって陥落した時島津軍に捕まった陶工等である。
翌三年十月に和議が成って島津軍は十一月半ば帰国の海上にあった。だが、李舜臣の率いる韓と明の連合水軍と戦って大敗して、島津義弘等はやっとの思いで博多湾にたどり着いている。だが、陶工達を乗せた船は行方不明になり、東支那海を流されて薩摩半島の浜に漂着したのはその翌年だった。場所は串木野の南の島平という無人の浜である。
それからこの無人地帯を二・三年もさ迷いながら、風景が故郷南原の山野に似ていて東支那海を見下ろせる丘陵地帯に居所を得た。ここが苗代川という地で、慶長八年(一六○三)のことである。
そして、細々ながら窯を築いたのである。このことが島津義弘の耳に達し、者どもすべて鹿児島城下に居住せよ、屋敷も与え、保護もするとの上旨を持って藩役人が苗代川に下った。だが、彼等は「故郷はとても忘れることは出来ません」と言って応じなかった。そこで藩は苗代川に土地と屋敷に扶持(給与)も与えて「朝鮮筋目(家柄)の者」と呼んで武士同様に礼遇し門を立て塀を巡らすことも許した。又、軍役に服する義務も外した。この点は佐賀藩の場合と同じである。 こうして彼等の活発な作陶活動が始まる。しかし、彼等は韓国の姓を捨てて日本の姓に変えることはなかった。旧幕から維新にかけて、その子孫達は苗代川郷士として薩軍に組み入れられて戊辰戦争にも従軍している。隊員の中に車、李、鄭、朴、伸、金などの姓のあるのはすべてそうである。だが、明治後は多少の例外も見られる。郷中でも名家とされる朴氏は東郷という日本姓に変えている。この朴家から日本帝国最後の外務大臣である東郷茂徳が出ている。
又、それぞれ家族がいたので、日本人と結婚する必要はなく、純血の伝統を守り続けたのである。従って明治に至るまで衣服をはじめ生活様式は韓国の風俗を続けた。言語ももちろん韓国語であった。
苗代川では村の鎮守を玉山宮と言い、朝鮮開国の神祖である檀君を祭神としてきた。だが、蕃神(外国の神)を日本の神としては認められないという明治政府の方針に一時は村中困惑したが、薩摩閥の政治力によって公認の神社になれた。今でも祝詞は韓語で祭事の仕方や祭具などすべてが古朝鮮の風である。
これとまるで反対なのが有田の陶山神社である。明暦元年(一六五五)に金ケ江三兵衛は七十七才の長寿を全うして死去した。皿山の開祖である彼を何とか神として祭りたいという皿山の民意を尊重した代官は宋廟の創建を許した。 だが、韓人の彼を主神とするのは恐れ多いと遠慮して、管轄下の二里村大里の八幡宮、即ち応神天皇の分身を移して主神とし、これに副神として藩祖鍋島直茂と陶祖として李参平を祀る宋廟八幡宮が皿山大樽に創建された。これが陶山神社である。時は金ケ江三兵衛死後一年目の明暦二年(一六五六)である。
その五年前の慶安四年(一六五一)には新村外尾に椎谷神社が創建されている。大樽の八幡宮を特に陶山神社と別称したのは、主神は応神天皇でも皿山の地に初めて陶業をもたらした李参平の功を万世までも残したいという皿山住民の願望からであった。これで同化政策も有終の美を飾られたと言えよう。
(二)色絵創始までの酒井田家
我が国における色絵磁器の創始者は酒井田喜三右衛門、即ち初代柿右衛門ということは周知の事である。この喜三右衛門が南川原で開窯してから、博多承天寺の僧登叔の紹介で製磁の師として招膀(礼を尽くして人を招きよぶこと)したのが高原五郎七と言われている。だが、この人物については前章で触れたように景徳鎮で陶技を習得したとか、石場を発見したとかの説もあり、全く謎の人物である。ともかくこの五郎七の足跡を有田町史と肥前陶磁史考から追ってみる。
五郎七は難波に牛まれ、天正十五年(一五八七)に豊臣秀吉が建てた聚楽第の御用陶師になっている。そして、家康によって豊臣が滅びるまで大坂方に従い篭城して戦った。大阪落城後の元和二年(一六一六)には博多まで落ち延び、承天寺の僧登叙を願ってきている。 それから三年目、元和五年(一六一九)唐津焼の代表的な産地である南波多の椎の峰山に移り住んで、この地の陶工達に技を教えること七ケ年、寛永三年(一六二六)に、喜三右衛門に招聘されて南川原に四年間滞留したとある。
寛永六年(一六二九)には嬉野内野山で開窯し、翌七年佐賀藩の御陶器主任副田喜左衛門の懇請によって岩谷川内の御道具山に来て見事な青磁の焼成に成功したという。そして、その製品を藩主へ献上している。しかし、その頃幕府によるキリシタン宗門の詮議が厳しくなり、五郎七はキリシタンだから逮捕されるとの噂がひろまった。それを聞いた彼は、青磁の製造に必要な道具類を谷に投げ捨て夜に紛れて逃亡した。寛永十年(一六三三)のことである。
大阪へ逐電(行方をくらまし逃げる)した彼は寛永十二年(一六三五)その地で死去したといわれている。
前章でも触れたが、享保八年と記された「酒井田柿右衛門家文書」の覚書の二に五郎七が元和三年(一六一七)に南川原に来て石場を発見したとあるのに、五郎七はその年は博多の承天寺に滞在している。従ってこの文書には信憑性(信頼してよりどころとすること)がないと言えよう。
又、有田町史通史編には、他の酒井田家文書からとして、初代の喜三右衛門は初代藩主勝茂の長男で二代藩主光茂の父である忠直に仕えている。だが、忠直が寛永十二年(一六三五)に死去したので、その後喜三右衛門は皿山で製陶を始めたとある。しかし、その二年後の寛永十四年には日本人陶工等が追放されている。 それなのに喜三右衛門には窯焼が許されているのは、藩主光茂が亡父の遺臣としての縁故を重んじたからであろう。
肥前陶磁史考によれば、杵島郡白石郷竜王村の飯盛山住人酒井田円西が、松浦郡有田郷の南川原に移住したとある。円西は喜三右衛門の父である。そして、白石以来文筆の友である承天寺の僧登叔か高原五郎七を紹介したとする、その手紙を引用している。だが、昭和五十二年に佐賀大学の三好不二雄名誉教授は円西宛てのこの手紙は、古文書学の立場からすれば信憑性が極めて薄いと断じ、特に五郎七なる人物については疑問が多いと言っている。
又、喜三右衛門の製品は赤絵付以前では白磁であるのに五郎七のそれは青磁であるのもおかしい。
酒井田家が製陶を始めたのが寛永十二年以降であるとするのが正しいとすれば、その年には五郎七は大阪で死去しているから、酒井田家とは何らの関わりもないということである。
その頃は、日本人を追放しなければならない程製磁の技法を身に着けたものは数多く存在していた筈である。鍋島宗家とは由緒ある者として窯焼を許された酒井田家としては、陶器を専門とする五郎七に頼らなくとも磁器専門の熟練師を雇い入れることは容易だったに相違ない。
肥前陶磁史考などの説では赤絵の始まりは寛永二十年(一六四三)とある。だが、仮に喜三右衛門の窯が寛永十二年からだとしてもそれまでの年月は僅かに八年である。そこで、この物語では有田町史の正保三年(一六四六)説によりたいと思う。 その年度はともかくとして、肥前陶磁史考によれば、その頃伊万里の有力な陶器商である東島徳右衛門が、白銀十校の伝授料で長崎に居留していた明国人の周辰官から赤絵付を習得したと聞いた喜三右衛門は、是非それを伝授してくれと懇望した処、その熱意に動かされた徳右衛門は協同して完成しようではないかと承諾した。
そして、喜三右衛門は徳右衛門の指導の下に実地試験に着手した。その中でも最も重要な赤の発色が極めて難しかった。徳右衛門の伝授といっても四・五行に調合法を書いた抽象的なものであったに違いない。
しかし、喜三右衛門は寝食を忘れて研究に没頭した。特に庭先に実った柿の赤い色に執念を燃やして遂にその赤色の彩釉を完成したのである。
正保三年(一六四六)五十才の時であった。
翌年喜三右衛門は柿の蓋物を製作し、これに前年完成したばかりの赤絵で彩色して藩主勝茂に献上した処、精巧で雅味のある真の名器だと賞せられて大いに面目を施した。そこで、自らを柿右衛門と改名して代々襲名することになったのである。
赤絵の絵付には成功したものの、金銀の焼付法が未だ残されていたので、彼は自ら長崎まで出向いて周辰官を訪ねた。 そして、金銀の焼付法を伝授してくれと懇願した。だが、言を左右して教えようとしない。たまたま、辰官が囲碁を好きだと知ったので、柿右衛門は数日その相手をして馴れ親んでからやっとその秘法を伝授されたという。
肥前陶磁史考ではこの金銀焼付の完成に高原五郎七の門弟宇田権兵衛という者が協力したとある。だが、五郎七が謎の人物であるからか、有日町史では取り上げていないので省略する。
(三)初期柿右衛門について
正保四年(一六四七)にポルトガルの「かりあん船」が長崎に来港している。「かりあん船」というのはガレー船のことである。広辞苑によれば「古代・中世に地中海で用いた船の一種。両舷に多数の櫂を出し、奴隷・囚人などに漕がせた。戦時には武装して兵船とした」とある。幕府の鎖国令によって追放されたポルトガルが再度の通商を求めて派遣したのである。
その年柿右衛門は赤絵の製品を長崎に持参して、幸善町の明人八官の手を経てこのかりあん船によって初めて海外へ輸出をした。又、因縁の深い東島徳右衛門が主としてその製品を取り扱っている。加賀前田家の御用商人塙市郎兵衛も売り始めたという。寛文初年(一六六一)からは有田中野原の陶商藤本長右衛門の手によって売られた。 柿右衛門が始めた赤絵の技法は十年足らずに遠く京都の野々村仁清にまで伝わっている。仁清は京焼に画期的な発展をもたらした名工であって明暦年間(一六五五-五七)を中心にして活躍している。このことからしても地元の皿山に忽ちにして広まったことは想像に難くない。赤絵創始から二十六年後の寛文十二年(一六七二)には赤絵屋の集落として赤絵町が既に存在している。
又、万治元年(一六五八)には柿右衛門は初めて佐賀藩主にお目見えしてる。身分制度の厳しい当時、一介の陶工が藩主にお目見えが許されるのは異例のことである。だが、前述した通り忠直の遺臣でもあり、赤絵付の創始者でもあったからであろう。そして、その後も藩主の代が代る度にお目見えをしている。
周知のように皿山では窯焼と赤絵屋の兼業は認められていない。だが、酒井田家だけは代々それが許されているのも大きな特典というべきであろう。
柿右衛門による色絵磁器の創始が、有田陶業にとってその存亡を左右するほどに重大なことであったかは、有田町史通史編の次の記述によって明らかである。
「有囲磁器の輸出は中国の内乱と深い関係がある。東印度会社は中国磁器を台湾で仕入れて本国へ送っていたが、寛永十九年(一六四二)頃になると中国の内乱が激しくなり、台湾商館の仕入れは大きく減少した。これは明王朝の末期にあたり、旧満州から起こった清に対して明の遺臣達が激しく抵抗したので、清は南方海岸地帯を封鎖するという強行策に出た。 この結果、景徳鎮一帯の陶業地は、内乱による生産減に加えて、製品を輸出することが出来なくなったのである。オランダ東印度会社は、仕入れが出来なくなった中国磁器の代わりに、長崎に近いところで生産されていた有田磁器の仕入れに転換したのである」と。このような時に有田に色絵磁器が生まれていたということは正に絶妙のタイミングだったと言わざるをえない。
景徳鎮に代わる産地として有田を選んで、各種の見本を提供した東印度会社は、その紋章のV・O・Cで有田とは馴染が深い。今年古木場に出現したポーセリンパークの別称でもある。慶長七年(一六○二)にオランダのアムステルダムでその地の貿易商数社が統合されて生まれた。そして、国家から喜望峰以東及びマゼラン海峡を経由して行う東洋貿易の独占権を与えられると共に、東洋方面に於て土着の王と条約を結び或は城砦を築いて軍隊を私有することを許可された。
その二年前の慶長五年にはオランダのリーフデ号が豊後の臼杵湾に漂着し、家康の外交顧問になった英人アダムズこと三浦按針が上陸している。その後、慶長十四年(一六○九)には二隻の軍艦を以て平戸港に錨を下した。そして、使者は駿府へ行って家康に謁見し、通商許可の朱印状を得て商館を平戸に設置した。寛永十八年(一六四一)にはそれを長崎出島に移転している。
酒井田柿右衛門家の文書「覚」には、色絵付に成功した柿右衛門は、製品を長崎に持参して加賀前田家の御用商人に売り、その後も中国人やオランダ人へ売ったと書いてある。万治二年(一六五九)東印度会社の長崎商館からオランダ本国とバタビア本店宛に送った日本磁器の中に
茶碗 一五○○個
白磁(角型) 六○○個
色絵(赤・緑彩文) 四○○個
同(大型赤彩文) 二○○個
色絵(銀彩花文) 二○○個
染付 一○○個
などとあり、その他多数の色絵磁器が輸出されている。そして、万治三年(一六六○)の仕訳帳には「乳白手素地のものと思われる」との記述がある。
慶応大学講師の西田宏子は、柿右衛門の色絵創始から幕末までの約二百年間を四期に分け、第一期を色絵創始から寛文前期(一六六五)頃としている。
そして、三つのグループに分けている。その一つは従来初期鍋島とか松が谷などと称されたもの。その二は古九谷風といわれるものとして、もう一つは中国明末の呉須赤絵の影響を受けた様式としている。柿右衛門に最も関わりのあるのはこの様式であると思われる。以下西田の説を引用する。
「有田皿山の初期色絵に見る呉須赤絵風の作品は、他の色絵磁器にくらべて素地が純白に近いものが多い。雑なものではあるが、乳白手ではないかと思われる程白地の強い素地もあり、ここに素地の白さを追及して行った柿右衛門様式の色絵磁器の先駆的なものを見ることができると思われる。しかしながら、この素地の白さと色調の明澄さは、その当時我が国で愛好されていた中国の呉須赤絵や、万暦赤絵のもつきらめくような色彩とは全く異質のものである。 我が国の人々を魅了したのが、中国色絵磁器の華麗さにあったのであるならば、ここに示した日本の呉須赤絵風の色絵磁器は印象を異にする。それゆえこの種の色絵磁器が国内での伝世品に乏しく、一方、海外では大いに賞翫され、輸出されたと考えられるのである。」
このように西田は初期色絵磁器を三つのグループに分け、それぞれの中に柿右衛門様式に展開してゆく要素を見ているが、「文様の主題の上から余り大きな変化は見られない。中国の呉須赤絵の影響を受けたとはいえ、竜、鳳凰、獅子などよりも牡丹、菊などの花文が好まれている。」と述べている。
(四)御道具山のこと
内野山から折角懇請して岩谷川内まで連れて来て、見事な青磁の器を焼き上げ藩主にまで献上した高原五郎七に逃走されてしまった副田喜左衛門は、その責任を深く感じたのであろう。同じ京都の浪人で義兄弟の契りを結んで一緒に窯をやっている善兵衛と協力して、五郎七が捨てて行った諸道具や青磁の破片などを谷から拾い出したり、青磁土の出る所をやっと突き止めたり、いろいろ工夫を重ねて工程の順序も知り、ご用品として青磁を完成した。
その功績によって喜左衛門は手明鎚(佐賀藩独特の士分で足軽よりも高い身分)に取り立てられ、正式に御道具山役を仰せつけられた。五郎七逃亡後のことだから、寛永十二年(一六三五)頃のことであろう。 喜左衛門は承応三年(一六五四)岩谷川内山で死去した。御道具山は万治三年(一六六○)頃まで岩谷川内山であった。
寛文元年(一六六一)に南川原に移っている。その頃は柿右衛門様式が完成に近づきつつあり、青磁だけよりも多彩な色絵に関心が移ったからであろうか。御道具山役は喜左衛門の長男清貞が襲名して跡を継いだ。だが、寛文六年(一六六六)南川原で死去、弟政宣が相続している。御道具山になった南川原山は柿右衛門を中心として盛況を呈したことであろう。だが、御道具山だったのは寛文十ニ年(一六七二)までで翌年延宝元年には大川内山に移っている。
その理由については明らかでないが、恐らく、製作の秘法を守ることや製品の品位を保つことなどが主なる目的ではなかったかと考えられる。又、大川内山付近には優良な青磁砿があったことも、最初岩谷川内の青磁から始まった因縁からしても理由の一つであろう。それに南川原山の中心であり、初代柿右衛門の跡を継いでいた三代柿右衛門が寛文十二年(一六七二)に死去したことも理由の一つとして考えられる。
大川内山では藩の御用窯が築かれている。肥前陶磁史考によれば「御道具山の登窯の室数は三十三室で、その真ん中の三室が御用品を焼くためのものであった。そして、この三十三室の焚き手を十六人と定め、この内十人を本焚き手とし、他の六人を助焚き手としてあったが、民窯からも交替に人夫手伝いを出したものであった。」とある。 御道具山には御用細工人・御用絵書きが任命されて扶持(給与)を本藩から与えられていた。有田皿山の細工人のうち、優れた技量を持っている者は御用細工人として大川内山に移住させられた。御用職人はろくろ細工人十一人、捻り細工人四人、画工九人、下働き七人、計三十一人の定めであったという。
御用陶器に赤絵を付ける時は、有田赤絵町の今泉平兵衛宅で調合した絵の具を大川内山の陶器方役所に送り、そこで絵付けを施して箱に入れ、再び有田に送られたものを平兵衛宅で赤絵窯に入れて焼いた。これが後で「色鍋島」とよばれるものである。では、何故このように面倒な手続きをとったのであろうか。これについては次のような記録がある。
「大川内御用御陶器のうち、赤絵物の付け方について、先年我々の同職の平兵衛と申す者を大川内山へ移住させるという通達があったが、赤絵付けは本朝(我が国)無類、極秘の職業であるから、有田以外の所で赤絵付けを行なうことは出来ない事を赤絵屋全員からお願い申し上げたところ、お上でもご尤もとお考えになり吟味変えになった。」と。
御道具山と称するよりも、近代では藩窯という名が一般的になっている。付言すれば、第一に、原料はすべて有田石場の最高の磁石を使用している事。 第二に、皿山代官の管轄下にあって、有田皿山と同じ行政管轄に編入されていた事、従って大川内山は公的には有田皿山の一部として認識されていた事。第三に、大川内御道具山の職人は、すべて有田皿山の職人の中から選抜されていた。献上ならびに大川内焼物に間する一切の職務権限は皿山代官に申し付けられている。
副田家は代々御道具山役を仰せ付けられて御維新まで続いた。この御道具山の設定も藩の有田焼保護政策の一つとも言えよう。
十七世紀から十八世紀への有田
(一)十七世紀後半の皿山
大木宿に皿山代官所が開設されて、山本神右衛門が面目横目付から正式に代官に任命されたのは慶安元年(一六四八)である。その頃、日本人陶工追放から十年余りしか経っていないのに、窯焼は百五十五もあった。それまで神右衛門は運上銀(税金)のことで窯焼達と藩との間に挟まれて大変苦心していた。
それというのは、彼が横目付時代の寛永十九年(一六四二)から翌年までの二ケ年を、伊万里の東島徳左衛門に内命して丁度その頃焼物買付のため、伊万里に来ていた大阪商人の塩屋とえぐ屋とを説得させて、この三人に「山請け」という専売権を与えた。即ち、有田皿山で生産される焼物全部をこの三人に買い占めさせる代わりに年に二十一貫づつを運上銀として上納するという契約を結んだのである。 ところが二人の大阪商人の方はその思惑が外れて大損した上、衣類まで売り払って運上銀未納のまま大阪へ逃亡した。これを聞いた神右衛門は早速このことを藩庁に報告すると共に、伊万里から両人の後を部下に追わせた。下関で迫い付いて運送中の焼物の荷を差し押えて、その地で売り払い運上銀の未納分を上納することが出来たのである。
この事件のため、特定の商人に専売権を与えるのを止める代わりに皿山中で運上銀を上納させることにした。神右衛門は藩の希望する運上銀の増額を百五十五人の窯焼が受け入れるよう説得を続けた。だが、七十五人の窯焼はたとえ追放されようとも応じようとしなかった。このような状況の下で江戸在府の藩主の裁決によって皿山代官所の設置と神右衛門の代官起用になったのである。
その結果、藩が要求した七十貫よりも多い七十七貫六百八十八匁の運上銀を取り立てて上納することが出来た。
色々の説もあるが、代官所は十八世紀の前半頃に大木から白川に移転している。五年後の承応二年(一六五三)の「万御小物成(田畑から上納する年貢以外の雑税)方算用帳」によれば、皿山からの運上銀は左の通りとある。
有田内外山 銀四十六貫二百七十五匁 大外山 銀八貫百十五匁
この算用帳は年具米以外の雑税すべてを記帳した計算帳のことである。
当時の呼称と区域とに多少の相違はあるが、 有田内山は泉山から岩谷川内までの旧有田町で、外山は外尾山、黒牟田山、応法山、南川原山、広瀬山(西有田町)一ノ瀬山、大川内山(伊万里市)である。大外山は鍋島本藩の直轄領以外で皿山代官の支配下にある陶産地であって、筒江山、弓野山、志田山、小田志山、吉田山、内野山の六ケ所である。
藩主が皿山代官に公布する行政についての掟を手頭と称している。代官は一年に一度内外山の窯焼達を代官所に集めてこれを読み聞かせたり、又は、代官が各山へ出張して読み聞かせた。百姓達にはその村の庄屋の家に集めて読み聞かせて周知徹底させている。従ってこの手頭が有田皿山行政の根幹となったのである。
この手頭で今でも残っていて一番古いのは、元禄六年(一六九三)に二代藩主鍋島光茂が公布したものである。これは宝暦(一七六三)年間頃まで踏襲されている。大体左の通りである。
無理非道をさけ廉直を旨とする。宗門改めの入念な実行。幕府法及び藩の掟の年毎の布達。火の用心。賭博の禁止。怠け者や煽動者の取り締まり。訴訟に対する公平な裁判。喧嘩狼籍に対する処置。代官や庄屋の命に従わない侍の追放。上下礼儀の遵守。女遊びや乱酒や目に余る遊びの取り締まり。他領からの旅人の監視。絵書きや細工人の他領流出の取り締まり。陶土の他領持ち出しの禁止などの諸項目に亙っている。
その後天保二年(一八三一)には次の事項が追加されている。 不良窯焼の取り締まり。窯焼に対する窯積入数量増加の奨励。運上銀の期限内徴収。などである。
昭和戦前まで有田の業界では見本のことを手頭と称していた。今では見本とかサンプルとか称して手頭は完全に死語になっている。何故手頭と称したかといえば、焼物の見本は藩の掟である手頭と同じように大変重要で権威のあるものだ。窯焼は見本を手頭と思ってそれと寸分も違わぬものを焼き上げなければならないという意味からであろう。
十七世紀の終り頃には代官と伊万里詰めを除いて手明鎚十名、足軽十名位が地方と陶器方及び大川内詰とに分かれて勤務していた。その下に手男という町人か農民かが手伝いとして若千名任じられた。そして、石場には土場番所、要所要所には口屋番所があって掟通りに勤務していた。
こうして十七世紀末までには皿山代官所の支配体制は確立されたものと思われる。だが、その過程にあって有田の秘められた色絵技法が早くも京都と加賀へ流出している。前章にも触れたが柿右衛門の色絵磁器創始から十年という短い間に先ず京都へ伝わっている。
享保十八年(一七三三)頃浄瑠璃に仕立てられた物語に「椀久松山元日金年越」というのがある。以下有田町史陶芸編から引用する。
「大阪御堂筋に茶椀屋久右衛門という商売熱心な商人がいたが、たまたま新町の遊女松山太夫と深い仲になり、その財産を使い果たしてしまった。松山太夫は『椀久』の家を再び盛り返そうと思い、その父が青山幸兵衛といって肥前有田の生まれであったから、父に頼んで柿右衛門の発明した色絵付けの技法を椀久に教えさせ、椀久は更にこれを陶工清兵衛に教え、こうして色絵付けの技法は京都に伝わった。 この事実が判明して、幸兵衛は藩法を破った罪人として刑に処せられ椀久はついに狂人となり、松山太夫は世の無常を感じつつ病没したという物語である。
陶工清兵衛は野々村仁清のことである。又、幸兵衛は有田の陶器商であったから椀久とは多少の交際があったと考えられる。物語には若干のフィクションは含まれているかもしれない。だが、事実に基づいていると言われている。
柿右衛門が色絵を完成した直後に加賀前田家の御用商塙市郎兵衛もその製品を扱ったと前章で触れたが、塙は柿右衛門の逸品を藩主前田利常に献上して大いにその賞賛を得たとある。このようなことが動機となって前田家による九谷の陶業が始まるのである。即ち、分家の大聖寺藩主前田利明は家臣の後藤才次郎定次を肥前に下して密かに白磁の製法と色絵の技法を探らしている。
万治元年(一六五八)のことである。
彼は身をやつして鍋島藩の警戒網を突破潜入し、後の赤絵町、当時の下幸平の陶商富村家(富村勘右衛門の先祖)の店員になった。才次郎は日夜勤勉に勤め、大いに主人の信用を得たという。この店に三年居て製磁の法は略会得した。だが、色絵の技法は内山にはまだ普及してなかったのか、彼は伝手を求めて屡々南川原へ行って柿右衛門の上絵窯を盗み見してやっとその要領を覚えたので、富村から逃げ出して長崎へ行き、中国人から絵付けの顔料などを購入して加賀へ逃亡している。寛文元年(一六六一)のことである。
才次郎は柿右衛門の色絵技法だけを覚えたのではなく、その頃山辺田窯辺りで製作されていた古九谷風の素朴な色絵も身に付けたのではなかろうか。 当時の古九谷風の色絵はヨーロッパはもとより日本人の好みには合わず、東印度会社の本店バタビア付近の東南アジア向けとして若干製造されていたとも想像される。そこで才次郎は色絵としては比較的単純なこの文様を以て九谷の主な絵柄にしたのではなかろうか。古九谷文様が有田で始まったというのが今日定説になったことからしてもこのような考え方も生まれて来るのである。
この節の冒頭に記した「山請け」の大阪商人の思惑が外れたことについて、前山博氏はその著「伊万里焼流通史の研究」の中で、「多額の請負運上銀に見合うだけの商売が出来なかった事情は何であったか」として西田宏子著「古伊万里」から引用している。即ち、「中国は明代末期の天啓・崇禎年間(一六二一-一六四四)にあたり、景徳鎮を始めとして各地で輸出用磁器が作られていた。
いわゆる『古染付』や『祥瑞』などの茶人の好みによったものも含まれている。このように茶道具用に特別に注文生産されたものとは別に、『呉州赤絵・呉州染付』といわれる中国磁器の輸入も忘れてはならない。この中国磁器の輸入は、初めは中国人と日本人の手によっていたが、寛永(一六二四-四三)初期にはこれにオランダ商人が加わる。(中略)一六三八年には総計十四万個余りの呉州赤絵・呉州染付が日本に持ち込まれている。このうち十三万六千個が大阪商人に売られている事実は、それらが京阪地方に於て、有田の磁器の進出に脅威を与えるに十分の量であったことは想像に難くない。」と。
そして、前山氏は次のように述べている。 「寛文末頃の全国的な飢饉とその経済的影響を背景として行われる市場での競合に於て、大量の輸入中国磁器の占めるシェアは大きく、草創期をようやく脱したばかりの有田磁器の市場進出を妨げたものと考えられよう。」と。
二人の大阪商人が「山講け」になった頃は既に内乱は起こっていたが、明滅亡の二、三年前のことであり、中国からの輸入は低調でも続いていたと思われる。専売権制が廃されて皿山中で運上銀を上納しなければならなくなったため、その製品を売り捌く商人が皿山に当然生れただろう。
京都へ色絵の技法を伝えた青山幸兵衛は皿山の商人で、その時期は一六五五年頃である。
椀久が有田まで来るということは不可能であり、幸兵衛が有田焼販売のため上阪した時と想像される。
又、九谷焼の開祖後藤才次郎が一六五八年頃住みこんだ富村家も赤絵町の商人である。柿右衛門の製品を寛文初年(一六六一)から販売したという陶商藤本長右衛門は中野原の住人である。幸兵衛の居所は不明だが、赤絵町かそこを挟んだ本幸平か中野原辺だろう。
赤絵町は一六七○年代に下幸平からこの町名になっているから、一六五○年代には既に赤絵屋が数軒生まれていたものと想像出来る。 そして、これらの赤絵屋が柿右衛門の技法を盛んに模倣したのであろう。従って幸兵衛や才次郎は柿右衛門窯を盗み見しないでも、近くの赤絵屋からその技法を盗むことは出来たのではなかろうか。いずれにせよ十七世紀後半には赤絵町を中心とした商人と赤絵屋が皿山の町の中心を形成していたと言えよう。
(二)伊万里焼大洋を渡る
有田町史は商業編1で伊万里焼輸出のことに百五十頁も充てている。それを十頁位に短く纏めるのは難しいが、数字によってみることにする。先ず中国磁器を専ら扱っていたオランダ東印度会社が明末の動乱のため、その輸出が困難になったので、その代わりとして有田の磁器に着目したのが始まりである。
明が首都北京を清に奪われたのは正保元年(一六四四)である。その三年後の正保四年の秋、初めて伊万里磁器が唐船(中国船)によって長崎からカンボジアヘ運ばれたという記録がオランダ商館の資料にあるという。 品名と数は「種々の粗製の磁器百七十四個」とあるから、勿論色絵ではない。又、当時日本で磁器が出来ていたのは有田だけだから、これは当然有田で作られたものである。そこで、有田町史から伊万里焼をオランダ東印度会社が輸出したという数量を年度別に見ることにする。
オランダ東印度会社伊万里焼輸出数量
(1650~1757)
年度 輸出数量
1650 (慶安三) 145
1651 (慶安四) 176
1652 (承応元) 1,265
1653 (承応二) 2,200
1654 (承応三) 4,258
1655 (明暦元) 3,209
1656 (明暦二) 4,139
1657 (明暦三) 3,040
1658 (万治元) 5,257
1659 (万治二) 33,910
1660 (万治三) 73,284
1661 (寛文元) 52,807
1662 (寛文二) 86,329
1663 (寛文三) 55,874
年度 輸出数量
1664 (寛文四) 68,682
1665 (寛文五) 32,787
1666 (寛文六) 13,389
1668 (寛文八) 40,329
1669 (寛文九) 25,542
1670 (寛文十) 48,536
1671 (寛文十一) 85,493
1672 (寛文十二) 17,231
1673 (延宝元) 11,498
1674 (延宝二) 36,375
1675 (延宝三) 6,009
1676 (延宝四) 37,527
1677 (延宝五) 50,404
1679 (延宝七) 50,561
年度 輸出数量
1681 (天和元) 33,694
1685 (貞享二) 15,848
1686 (貞享三) 7,930
1687 (貞享四) 16,618
1688 (元禄元) 17,420
1689 (元禄二) 21,337
1691 (元禄四) 6,000
1692 (元禄五) 2,000
1693 (元禄六) 7,600
1694 (元禄七) 2,800
1695 (元禄八) 7,900
1796 (元禄九) 8,700
1697 (元禄十) 12,048
1698 (元禄十一) 8,454
年度 輸出数量
1699 (元禄十二) 8,510
1700 (元禄十三) 6,640
1701 (元禄十四) 2,866
1702 (元禄十五) 2,500
1703 (元禄十六) 3,150
1704 (宝永元) 6,600
1705 (宝永二) 16,050
1706 (宝永三) 20,216
1707 (宝永四) 9,428
1708 (宝永五) 12,020
1709 (宝永六) 7,860
1710 (宝永七) 10,940
1711 (正徳元) 9,000
1714 (正徳四) 12,946
年度 輸出数量
1720 (享保五) 22,150
1721 (享保六) 2,648
1722 (享保七) 1,850
1723 (享保八) 3,300
1727 (享保十二) 6,457
1731 (享保十六) 4,174
1732 (享保十七) 3,871
1735 (享保二十) 6,550
1737 (元文二) 100
1740 (元文五) 1,796
年度 輸出数量
1741 (寛保元) 1,940
1742 (寛保二) 1,841
1744 (延享元) 200
1745 (延享二) 2,702
1746 (延享三) 1,002
1754 (宝暦四) 7,435
1755 (宝暦五) 6,028
1756 (宝暦六) 11,725
1757 (宝暦七) 300
合計 1,233,418
(備考)この表に無い年度には輸出が無かったか、又は不明とある年である。
この送り先別の明細は次のとうり。
送り先 数量
バタビア政庁病院 22,518
バタビア政庁薬局 13,076
V・O・Cバタビア薬剤局 193,822
V・O・Cバタビア雑貨部 105,830
バタビア総督官邸 7,504
オランダ本国 190,489
バタビア会社本店 172,001
マラッカ商館 132,084
マラッカ要塞病院 800
セイロン商館 29,789
ベンガル商館 18,886
送り先 数量
台湾商館 10,505
トンキン商館 11,250
ペルシャ商館 102,055
モカ商館 21,587
スラツテ商館 185,862
シャム商館 2,261
コロマンデル商館 3,990
マラバール商館 5,252
コチン商館 1,100
アンボイナ・バンダ商館 2,776
合計 1,233,418
柿左衛門の色絵創始から十三年目に当たる万治二年(一六五九)の資料が現存している。輸出数量33,910個の内、白磁6,950個、色絵磁器3,532個、染付23,425個とある。即ち、白磁二十%、色絵磁器十%に染付け七十%である。 だが、このうちオランダ本国に送った明細は次の表の通りであり、色絵が全体の四十五%を占めている。このことは当時欧州では既に有田の色絵が歓迎されていたことを物語っていると言えよう。
オランダ向け磁器輸出明細表(一六五九)
品名 色絵 白、染付 合計
茶碗 800 700 1,500
碗 195 0 195
鉢 304 300 604
皿 600 1,520 2,120
バター皿 590 240 830
瓶 50 0 50
重箱 5 0 5
壷 1 99 100
品名 色絵 白、染付 合計
塩入 0 10 10
芥子入 0 10 10
三揃平体 0 300 300
インク壷 0 10 10
酒用鍋 0 10 10
鶴置物 0 3 3
計 2,545 3,202 5,747
(外に見本108個)
以上が当時本方荷物といわれたオランダ東印度会社による輸出の大要である。これ以外に商館職員やオランダ船の乗員らの個人の売買荷物を脇荷と称した。会社はこの私貿易を厳しく禁止していたが、幕府は慣例的なものとして認めていた。だが、貞享二年(一六八五)この脇荷輸出の定額を四百貫と制限している。脇荷輸出の数量を有田町史では左の通り推定している。 この内資料が残っている正徳元年(一七一一)の脇荷輸出は十四万九千五百八十三個で銀額で三百九十四貫二百八十七匁七分とあり、幕府の制限定額ぎりぎりである。又、東印度会社の輸出数九千個と合計すれば、数量は十五万八千五百八十三個。銀額は四百十三貫六百七匁七分(この金額六千八十二両一分と銀十四匁七分)であるから、脇荷は量で九十四%以上、金額で九十五%以上を占めていることが分かるのである。
蘭船によるもの合計 400万5,972個
寛文元(1661)
~天和三(1683) 23年間 115万個
貞享元(1684)
~元禄十六(1703) 19年間 132万個
宝永元(1704)~
正徳五(1715) 12年間 103万5,972個
享保元(1716)~
享保八(1723) 7年間 49万個 唐(中国)船によるもの(主にバタビア向け)
合計 203万8,283個
寛文元(1661)~
寛文十二(1672) 12年間 109万5,323個
延宝元(1673)~
天和二(1682) 10年間 94万2,960個
この唐船による輸出は一六八三年以降資料から消えている。これは康煕帝によって国内が安定したため、清朝は展海令を公布してバタビアヘの中国磁器の輸出を始めたからであろう。しかし、その後も唐船による伊万里焼の輸出は若干は続いたとある。
十七世紀後半から十八世紀初頭までは活況を見せた伊万里焼の輸出がその後著しく減退したのは何故であろうか。第一に考えられることは、輸出と共に大阪を主な市場とする内需も盛んになったため、価格が高騰したことである。
第二には貞享二年(一六八五)から始まり、正徳五年(一七一五)の幕府による貿易制限令がその翌年から適用されたため、その年以降、東印度会社が自家用以外の商売用の伊万里焼の輸出を止めたことである。 第三の理由は、清が前述した通り輸出禁令を解いたため、伊万里焼がヨーロッパで賞翫されているのに刺激されて中国磁器の輸出が盛んになったことである。康煕時代に開花した彩磁中特に青花という文様は欧州の好みを取り入れたもので東印度会社の手によって少なからず欧州へ輸出された。その後更に端正で華麗な美を誇る康煕五彩から雍正・乾隆期には西欧主導型の粉彩磁器の流行に発展したのである。この中国彩磁器のヨーロッパ輸出は一八三○年頃まで続いて伊万里焼の強力なライバルになっていたのである。
第四の理由として最も重大なことは、伊万里焼の美に憧れて模倣する機運がヨーロッパ全土に起こってイミテーションの製造を目的とする陶業者が次々に生まれたことである。これについては次の節で述べることにする。
(三)十八世紀初め欧州に磁器開発さる
有田町史では十七・八世紀にヨーロッパヘ輸出された色絵磁器を様式別には分類していない。又、伊万里焼が十八世紀に於てヨーロッパの窯業に与えた影響についても触れていない。特に十七世紀に於ては京都や九谷、十八世紀には会津や砥部、瀬戸に有田磁器が与えた影響については詳しく述べてある。だが、ヨーロッパの磁器発生に原動力的役割を有田焼が果たしたことはよりグローバル(地球的)なことである。そして、皮肉にもこれが逆に作用して伊万里焼輸出減退の重大な理由になったことも見逃すことの出来ない事実である。
このことを見事に解明したのが、有田町史と前後して昭和六十一年六月に発刊された故深川正氏著「海を渡った古伊万里」である。氏はその一年半後の六十三年一月に不帰の客となったので彼の遺著とも言うべき貴重な書である。 ということは、この著を著わすため、昭和四十五年には有田の若い業界人やデザイナー達七人のリーダーとして初めて渡欧したのを皮切りに十七・八年の間に十回もヨーロッパ諸国を初めとして中国、ジャワ、ケープタウン、米国等を探訪して得た、生涯をかけた労作であるからである。
以下ドイツの分だけ同書から引用する。
「十八世紀の初め、ヨーロッパに流入した東洋磁器に接して、なんとかしてそれらに劣らない透明な磁器を作り出そうとする努力は、フランス、イタリア、ドイツで同時に行われたが、ドイツの場合は他とくらべてはるかに抜きんでていた。ザクセン地方に良質の陶土が発見されたことにもよるが、より大きな理由は、アウグスト一世というまことにすさまじい陶磁愛好者を頂点にいただいていたことによるものであろう。
ヨーロッパで最初の磁器発見の手掛かりをつかんだ人は、錬金術師のベトガーである。彼はヨーロッパでも一、二を競う、有名な錬金術師であった。この高名と才能を、アウグスト一世が見逃すはずがない。逮捕同様な手段で、ベトガーを強制的に採用し、マイセンに近いアルベルヒスベルク城でまず金を作らせる。次いで一七○四年、これまた世界的に著名であった物理学者のチルンハウスを知り、彼と共同で、磁器の開発研究を重ねる。かくて、ザクセン地方で産出する原料を何度も試験焼きし、高温焼成でのあらゆる化学変化を見るため、苦心に苦心を重ねて実験をくり返した。その結果、耐熱性のある粘土に溶解土を混入して焼成することにより、初めて磁器らしいものを得ることに成功した。(中略) このソフトなものが、ベトガーの手によって完成したのが一七○七年、ただし赤色の器、つまりレッド・ストーン・ウエアで、完全な透明度のある磁器の一歩手前のものであった。さらに一七○八年、マイセンの近くで耐熱度の高い陶土が発見され、ここに初めて透明度のある白い磁器の完成を見たのであった。(中略)この成功を非常に喜んだアウグスト一世は、早速ベトガーを中心に据えて、アルベルヒスブルグ城に本格的な製陶工場を開設する。(中略)
ベトガーは、単に磁器のボディを生み出したばかりでなく、そのボディの上に、金銀をはじめとする各種の原料を使って、色絵の装飾をほどこすことにも成功している。
当時、(中略)初期の装飾文様は中国風であったが、それが次第に、有田の柿右衛門様式や古伊万里様式の模倣は、先ずマイセンにはじまり、ここを起点としてフランスやイギリスに波及し、各窯々の絵文様様式を確立させていったのである。」
ドイツ以外のフランスやイギリスとオーストリアについては、同書から要約して次に述べる。
十七世紀の終り頃からフランスのサン・クルー窯では、早くも柿右衛門様式の模倣がなされている。この窯の持つ軟質性の地肌は「濁し手」さながらの感じで新しい魅力となって当時のパリ人に愛好されたといわれる。
十八世紀に入ると、民営が困難になり、宮殿工場としてシャンティ窯が、一七二五年にコンデ公によって設立された。 その当初から柿右衛門様式をそっくりそのままコピーしたという。公はドイツのマイセンからも引き抜いた絵付師達に模倣を続けさせると同時にそれをヨーロッパ人の趣味と鑑賞に合わせるように指示したと言われている。
十八世紀のイギリスには四つの大きな窯がある。王宮の支援の下、一七五一年に創立されたのがチェルシー窯である。王室用の最高の品を焼いて一七七○年頃まで最盛期を持続する。ここでも有田の柿右衛門様式のものが「インド風草花文」の名目で次から次へとコピーされたという。
チェルシー窯のライバルがボー窯である。一七四四年に創設されてボーン・チャイナを開発している。この窯で通常用いられたデザインは柿右衛門スタイルであったという。
一七五○年に創立されたダービー窯は、十八世紀の終り頃から古伊万里スタイルやマイセン物をコピーしてマイセン窯と同等の物を作るのが究極の目標とされていたという。
古伊万里コピーで有名なのがもう一つある。一七五○年頃からのウースター窯である。この窯の特色は古伊万里文様からの直接のコピーということと、そのコピーがオランダのデルフトから連れて来た絵付師によってなされたということである。
「海を渡った古伊万里」には、深川氏が丹念に調べ上げた、世界各地の美術館などに残されている夥しい数の伊万里の名品が紹介されている。 この書を読めば、十七・八世紀にヨーロツパヘ輸出された色絵磁器は、大物は主に豪華絢燗な古伊万里風、小物は主に端正美麗な柿右衛門風であることが理解できると思う。
オーストリアのウィーンには、一七一七年から一七四四年まで三十年足らずの短い間であるが、柿右衛門写しを続けたというデュ・バキアという窯がある。この窯はマイセン磁器の発明者ベトガーと親しいフンガーという技師が迎えられてから、マイセンの柿右衛門パターンである「松竹梅、柴垣に鳥の図」などを手本としたということである。
以上が十八世紀の欧州諸国で柿右衛門や古伊万里等有田磁器が与えた影響の概要の一端である。
第四章 十八世紀の皿山と有田焼
(一)十八世紀までの国内流通
十八世紀になってから皿山の窯焼によって生産された有田焼はどんな方法で国内販売がなされたかについて、伊万里港から相手市場との関連については肥前陶磁史考や有田町史にも概略だけは記述されている。だが、それは有田を離れて伊万里に運ばれた後のことだから、町史としてはそれでよいとも言えよう。
しかし、幸いのことに伊万里を起点とした有田焼の国内流通については、最近刊行された前山博氏の「伊万里焼流通史の研究」に詳しく述べてある。だが、皿山から伊万里津までの流通がどうしてなされたかについては触れられていない。又、このことは肥前陶磁史考でも有田町史でも全く分からない。
十七世紀の資料には皿山の商人の名が散見される。寛文初年(一六六一)から柿右衛門の製品を取り扱ったという中野原の藤本長右衛門。 京都の仁清に色絵の秘法を伝えたという青山幸兵衛。又、九谷の後藤才次郎を店員に雇ったという下幸平の富村森三郎も商人である。
この富村の先祖は本家の富村源兵衛に従って伊万里から有田に移住し、自分は下幸平に、本家は大樽に店舗を構えている。そもそも、富村源兵衛は鹿児島城下の豪商であって、二千石余の巨船五・六艘を所有し、琉球通いを名目にした印度貿易を営んでいた。ところが文禄三・四年(一五九四・五)頃薩摩藩は、先の天正十五年(一五八七)秀吉の侵攻の時、領内の真宗門徒が八代法主顕如の唱える名号の前に屈したことが敗北の原因だとして、真宗寺とその門徒に圧力を加え磔刑にするというので、門徒だった富村源兵衛は家財一切を持ち船に搭載して分家共々鹿児島を逃げ出し伊万里港に上陸した。そして、富村両家はこの地に居住して雑貨類の印度貿易を続けた。
この時一緒に逃亡して来た明善寺の住職には江湖の辻で今の明善寺を開基させたのである。その後有田焼が貿易の主体になったので、分家と共に有田皿山に移住したのである。この富村家の様に財力のある者は商人として皿山で繁栄を続けることが出来た。だが、前章で述べた青山幸兵衛などは商人としての財力が乏しいため、娘を遊女に売って資金を調達しているようである。
肥前陶磁史考によれば、十七世紀には江戸の陶商が皿山まで来て直接窯焼から仕入れたという記事も左の通りにある。
「寛文八年(一六六八)江戸の陶商伊万里屋五郎兵衛は、仙台藩主伊達陸奥守綱宗の需めによって、有田へ下り商品仕入の傍、精巧な食器を物色したところ、絶品が得られなかったので、二、三の窯焼に相談したら当時の名陶家辻喜右衛門を推薦した。 そこで早速彼に注文して青花の見事な食器を入手出来たので、満足して携え帰り伊達家に納めた。二年後の寛文十年のことである。」
このように早くも十七世紀の後半には江戸からさえ陶商が皿山まで仕入に来ているくらいだから、国内第一の市場である大阪からどんどん陶商が入り込んで来たのは当然であろう。しかも六五○年頃には中国からの輸入は完全に途絶しているから、磁器の供給地として皿山の比重は急激に高くなったのだろう。色絵創始までは粗製の磁器といわれていた有田焼も色絵の普及と大阪商人が提供する中国磁器の模倣とによって急速に品質が向上したに違いない。前山氏の著書によれば、延宝年間(一六七三-八○)大阪に早くも「肥前いまり焼物問屋」が六軒も存在している。
その頃既にいまり焼物との呼称があることからして、積出港の伊万里には柿右衛門色絵創始を指導した東島徳右衛門の他にも多数の商人が発生していたと想像される。伊万里で焼物商人が主に居住していた辺りを有田町と称していたことから、皿山の商人で伊万里に移住した者も相当いたに違いない。
伊万里への国内市場からの仕入客は、紀州、筑前、越前に分類されていた。紀州客は江戸を主とする関東地方。筑前客は大阪を主とする近畿地方から九州まで。越前客は北陸方面から裏日本一帯を縄張りにしていた。中でも紀州客は御三家という権威を背景にして最も有力であった。特に有田郡箕嶋村の商人は伊万里との縁故が深く後で伊万里に移住する者もいた程である。 十八世紀も後半にはオランダ東印度会社との取引も途絶して、皿山の焼物はその殆どを国内市場に依存せざるを得なくなった。それも伊万里商人の仲介によってである。十九世紀初頭の文化年間(一八○四)には内地向焼物は、一切伊万里市場に於て取引すべしとの藩命が出てからは貿易商か赤絵屋兼業以外の商人は皿山から消滅するのである。
だが、十八世紀には僅かだが有田に商人はいた。有田町史商業編1に、天明八年(一七八八)下南川原山の百姓喜惣次が「焼物売り支配の為め」大阪へ行く目的で五ケ年の旅行許可証を代官所に申請したところ、往復三ケ年期限で許可されたとある。
(二)十八世紀皿山の各業種の概況
寛文十二年(一六七二)代官所は赤絵業者がむやみに増えるのを防ぐため、当時営業していた十一軒を認め、それ以上の増加を制限した。そして、下幸平の中で赤絵屋が密集している中野原寄りの地域を分離して赤絵町とした。残された地域はその時本寺平と改称している。当然営業許可証の名代札が交付されたが、窯税も徴収されることになった。
それから約百年後の明和七年(一七六九)には赤絵屋を五軒増やして十六軒とした。当時の氏名は明確でないので、六十年後の文政十二年(一八二九)の氏名を見ることにする。
北島寅吉 (橘次郎) 赤絵町
光岡幸平 (久吉) 赤絵町
古田友吉 (茂三郎) 赤絵町
藤重易吉 (太造) 本幸平
川浪卯三郎 (丑之助) 本幸平
辛島弥十 (弘助) 大樽
大塚松太郎 (財四郎) 白川
古田増右衛門 (森吉) 稗古場
西山幸十 (幸蔵) 中野原 (註)括弧内次代。古田友吉後で辻に改姓。
北島源吾 (勝助) 赤絵町
今泉平兵衛 (助五郎) 赤絵町
牛島源右衛門 (兵右衛門) 赤絵町
田中幸兵衛 (長十) 赤絵町
富村芳右衛門 (森三郎) 赤絵町
北島忍松 (宇之吉) 赤絵町 この他に唯一人赤絵屋を兼業とすることを許されている窯焼がいる。それは赤絵の創始者である酒井田柿右衛門である。
安永八年(一七七九)五月、皿山代官久米弥六兵衛は赤絵屋絵付の秘法の漏洩を防止するため、家督相続法を協定させた。
それは、十六軒の戸主に子は何人いても、その相続人以外には金付彩釉の調合一切は伝授してはいけないということを盟約させたのである。これの要旨は有田町史陶業編1から引用する。
「皿山の赤絵物は、日本は言うに及ばず、外国にまで輸出されている産物であるが、近年長崎奉行の命令で天草で焼物を作り、オランダ輸出用の焼物を製作しているとのことである。これについては絵書き・細工人が有田皿山から参らないでは製作することができないのであるが、平戸領や大村領でも製作しているとのことである。それゆえ、早速調査したところ、薄手の上物は出来ていないが、上方から細工人や絵書きが下って来て近年は三河内辺りに住みつき製作しているので、それらの者が作った焼物を取り寄せて見たところ、皿山の物に似ても似つかぬくらいの下品の物である。 しかし、皿山の赤絵も最初は甚だ見苦しかったが、十六軒の赤絵屋がめいめい心をくだいて絵具の調合法を工夫し、現在では『他家に洩らさず、家々の家伝になし、一子相伝』としている。しかし、下働きの下男どもは見よう見まねで技法を覚え、利欲に目が眩んで他領へ出て技法を伝えるおそれもあるので、去年以来、皿山中の人別調べを開始し、私領からもそのつど届けさせ、一人でも他領へ出ないように手段を講じている。とりわけ赤絵物は日本第一御国(佐賀藩)の名産であるから、格別に取り締まりの方法を吟味させられたわけである。もっとも、上から強制的に命令しても違反することはないであろうが、この節は各人から自分の取り締まり方法を立てて、それに違反しないように家職を営むよう規則を定める必要がある。」
そして、この盟約書に庄屋(赤絵屋頭のこと)金兵衛以下十六名が署名捺印したのである。
窯焼の数は寛永十四年(一六三七)の陶業者の淘汰の後は、その数百五十五人だったが、寛文十二年(一六七二)から宝暦十三年(一七六三)までの間は、窯焼名代札の数は百八十人に限定されている。その目的は過当競争による品質低下を防止することにあった。しかし、名代札の数と稼動している窯焼の数とは必ずしも一致していない。というのは名代札を持ちながら休業している窯焼もいたからであろう。
その後窯焼名代札は文化六年(一八○九)には二百二十人に増加している。そして、内山は百三十九人に限定されている。即ち、内山百三十九人外山八十一人である。明治九年(一八七六)の窯焼数は内山百二十九人、外山七十八人とある。内山は十人、外山は三人の減である。幕末から明治初年の混乱期に休業していたのであろう。柿右衛門窯もその時期休業していたのか名前が出ていない。 十八世紀中代官所からオランダ貿易を許されていた皿山の商人は明和七年(一七七○)の時点で十人となっている。「皿山代官旧記覚書」によれば、「近年有田皿山の陶器、唐・和蘭向け不景気について、今般吟味の上、当年よりは右商人十人相定めいささかも粗末の陶器を相渡さざるようきびしく申し付く儀に候」とある。
そして、明和九年(一七七二)には岩谷川内山の幸兵衛他十人は出島への出入りを差し止められている。ところが安永五年(一七七六)には貿易商十人が許可されている。それの「申し渡し」によれば、弥惣右衛門、利惣次、喜兵衛の三人は出島への出入りを許可されていて、オランダ人から直接注文を受けることが出来た。残りの七人は長崎の問屋を経由してオランダ人の注文を受けることになった。
そして、注文品が出来上がると、商人が長崎まで持って行くか、又は船便で長崎まで送り届けたのである。「申し渡し」の後半には注文を受けたら必ず品名数量を皿山会所に届けること。皿山会所が知らないでいると、万一注文品についてトラブルが起こった場合、皿山会所の手落ちになる。当時オランダ船は毎年一回旧暦七月二十日に長崎から出帆する定めになっていた。 もし皿山から品物が届かないため、出帆を遅らせることになれぱ、佐賀藩の責任問題になるからである。
皿山会所というのは、大木の代官所の出先機関で陶業に関する件一切を管掌していた。場所は上幸平で現在の篠英陶器店の車庫になっている辺りという。
(三)十八世紀皿山の明暗
十八世紀には有田四百年の歴史に特筆すべき明暗二つの事件が起こっている。明るい方は、辻家の禁裏御用達直納であり、暗い方は、富村と嬉野の密貿易事件である。
宝永三年(一七○六)上幸平の窯焼辻家四代の喜平次愛常へ朝廷から特旨を以て磁器を直納するよう命が下った。そして、常陸大掾に叙せられて、綸旨(天皇の言葉を書いた書)と天杯を賜ったことである。
これより先、江戸の陶商伊万里屋五郎兵衛を経由して二代喜右衛門が青花の磁器を仙台藩主伊達綱宗に納めたことは第一節で述べたが、綱宗はその精巧さを大いに賞賛して、これは尊い方が用いる器であるとして、直ちに仙洞御所に奉献したのである。 時の霊元天皇は殊の外嘉納された上、佐賀藩主鍋島光茂へ命じて、喜右衛門へ「禁裏御用達御膳器一切其他御雛形を以て尚一層清浄潔白なる製品を調達すべし」との勅諚があり、辻家へにはご紋章付幕や御紋章付高張り提灯等を下賜された。そして、この時から天皇家御常用の器は鮮麗な青花白磁になったという。
しかし、この時は辻家よりの直納ではなく、佐賀藩を通じての納品であった。それが喜平次の代になって直納になったのである。その後今日まで三百年余続いていることは周知のことである。尚、幕藩時代辻家にて使用する泉山の原料は特別に御用坑と称して最上の磁石であった。
辻家については、十九世紀になってから、即ち、文化八年(一八一一)六月に八代の喜平次が極真焼という焼成法を発明した。三代以来禁裏御用命を拝している彼は、日頃陶技の向上に精進していた。或る時の窯出しに、窯室内で上から落ちたのか、大小の器が数個密着したのがあった。それを壊して調べた処、大きな器の中に落ちて焼成された小器が、玲瀧玉のような出来栄えであったことにヒントを得て案出した焼成法である。
即ち、目的の器が入る位の大きさで同じ白土を以て容器を作る。そして、その中に目的の器物を入れて同じ白土の蓋を釉薬で以て封じて密閉し、全くの真空の容器内で焼き上げる。焼き上がれば、鉄槌で外の容器を壊して中の器を取り出すもので極真焼と称した。これを以て有田焼の声価を並々高めたことは言うまでもなかった。 密貿易とその断罪という全く暗い事件は、富村家四代の勘右衛門の時に起こった。初代源兵衛や分家の森三郎については第一節で記した。富村本家の印度貿易は寛永十一二年(一六三六)の鎖国会によって途絶せざるを得なかった。だが、本家富村家は貿易からの莫大な蓄財によって四代勘右衛門に至るまで皿山屈指の資産家であった。当時の童歌に、「勘ねんどんの倉には味噌つき金つき沸き返って候」というのさえあったという。
この勘右衛門は天性進取の気に溢れる男であった。そして、今日の財を築いた祖先の印度貿易という偉業を思う時、はやる雄心を押えることは出来なかったのだろう。当時富村家には嬉野次郎左衛門という番頭がいた。彼は鹿島藩士の犬塚家から嬉野家に養子に来た男だが、英俊且つ剛胆の性格であった。
自宅の赤絵町では角屋という酒屋を営みながら富村家の頭番頭を勤めていた。
薩摩隼人の血を受けた勘右衛門と葉隠武士の流れである次郎左衛門とは意気投合し遂に幕府の禁制を犯してでも、有田焼の海外貿易を画策したのである。勘右衛門が焼物を伊万里港で積込んで一旦平戸港に仮泊し、ここで次郎左衛門が同地の今津屋七郎右衛門の協力を得て主として印度方面へ密航した。そして、印度で珍貨奇品を積んで帰港し、これを密かに内地で販売して巨利を得ていたのである。
しかし、次郎左衛門が大阪で販売した舶来品から足がついて、彼は勿論、今津屋および船頭の徳右衛門等悉く逮捕されて長崎の獄舎に入れられたのである。 次郎左衛門に対する拷問は非常に厳しかった。だが、彼は断固としてこの事は自分だけの所行であり勘右衛門は少しも関知していないと頑張り続けた。勘右衛門はこのままでは次郎左衛門を長く苦しめるだけでなく、首謀者である自分も所詮は罪科は免れないものと観念して、享保十年(一七二五)五月二十日、大樽の自邸で割腹して果てた。
獄中でこの事を聞いた次郎左衛門はいさぎよく自ら刑について、七郎右衛門、徳右衛門と共に、長崎の白坂で晒し首にされた。同年十一月十八日のことである。
いさぎよい自刃によって富村家には何らのお咎めもなく家は現在に至るまで続いている。分家の富村家は十六軒の赤絵屋の一人である。
嬉野家では次郎左衛門の刑死後、嬉野性を母方の姓の久間に改めて代々続いている。十七世紀には青山幸兵衛の刑死もあったが、一人が自刃、三人が磔刑というこの事件は有田町史上最大の悲劇といえよう。
(四)副島勇七のことなど
富村家の事件から七十五年後の寛政十二年(一八○○)に泉山生まれの名工副島勇七が刑死の後晒し首にされている。この事については広報ありた九月号に学芸員の知北万里氏が記述されているが、重複を省みず述べよう。
勇七は皿山の細工人で天明(一七八一-一七八八)頃、藩から徴用されて大川内の藩窯で働いていた。彼は本職のろくろ細工の他に、彫刻や捻り細工に窯積み方から原料の調合や青磁の製法に至るまで精通した熟練工だったので、その作品はすこぶる優雅で独特の妙味があり、周囲から賞賛されていた。
特に時の藩主治茂からは格別の恩顧を受けていた。それが彼を慢心させ騎り高ぶる態度となって藩命にも反抗して数回も謹慎させられている。 藩窯はもとより皿山諸山中並ぶものない自分がこんな草深い大川内の山間に封じ込められているのが口惜しいと彼はその発散出来ない心中の怒りを人に漏らしていた。
そして、藩命と言って名工等を徴用した上、外出さえ許さないのは不当であると非難していた。しかし、彼のこの不平を、周囲の連中は長年の慣習からして先祖以来の藩主の厚恩を忘却するものとして勇七を傲慢だと憎んでいたという。
又、藩としても卓抜した技術を持つ彼を罷免すれば、その秘法を他国へ伝播させる恐れがあるとして、寛大に待遇していたので、彼は益々増長し藩窯の窮屈な制度を改革せよと監督の藩吏へ抵抗していたが、そのことが度重なったので、遂に藩主の裁可を得て藩法通り所払いになって隣村の正力坊へ居を移された。
そして、御用職人の資格を剥奪され、給与もないので極度の貧困に陥った。だが、自業自得だとして誰一人助けてくれないので、遂にある夜、彼は妻子を捨てて遁走した。寛政九年(一七九七)のことである。一度は伊予の低部にも行った形跡もあった。だが、さっぱり行方は知れなかった。その後たまたま京都の市場で陶器ではあるが、瀬戸焼の中に色鍋島を模写したものが発見された。これが捜索の端緒となった。そして、佐賀藩の捕吏が瀬戸へ乗り込んだものの、徳川御三家筆頭の尾張侯領内のため、勝手に踏み込みが出来ず商人や職人などに変装して捜索した。だが、瀬戸の窯焼達も巧みに彼を隠匿して警戒しているので、捕吏達はどうにも手を下すことが出来なかった。
そこで、皿田代官所の下目附小林伝内は、顔料の呉須売りに変装して目星をつけた窯焼きへ入って買ってくれとしきりに頼んだ。 応対した主人は自分では品質の見分けは出来ないが、幸い専門の人が居るから鑑定させるとその品を別室に運んだ。鑑定の結果、品質は悪くないが、値段が少々高いから値引きしてくれと言う。
すると伝内はその呉須を手に取って見て、これは今自分が渡した品でない。別室で他の劣等品とすり替えたに違いないと言い掛かりをつけた。主人は以ての外と驚いて弁明した。だが、伝内は承知しない。主人も立腹し遂に立ち上がっての喧嘩になった。別室で耳にしていた勇七が一刀を引っ提げて飛び出して来たので、伝内は得たりと大喝一声難なく取り押え捕縛して佐賀城下に護送したのである。
糾問を受けた勇七は、この上は世界無比の絶品を命にかけて仕上げ献上するから、生命だけは助けてくれと嘆願した。
かっては寵愛した者であり、根が慈悲深い藩主治茂は死一等を減じたい意向を漏らしたが、藩法は曲げることは出来ないとして、寛政十二年(一八○○)十二月二十八日、嘉瀬の刑場で斬首された上、他の工人達へのみせしめと大川内の街道鼓峠に晒し首にされた。
勇七の遺品としては、彼が生前郷里泉山の弁財天社に奉納した唐獅子がある。太白の罅出し磁器で姿勢骨格共に優秀な作品と称されている。
なお、「日本陶磁器史論」という書には勇七が行った所は瀬戸でなく砥部とある。だが、「肥前陶磁史考」では有田の古い資料からして瀬戸と断定されているので、これに従った。勇七を捕縛した伝内はこの功によって足軽から士籍に昇進している。 勇七が遁走していた寛政九年(一七九七)から翌十年にかけて、皿山の製法が遠く東北の会津まで伝播して会津磁器が創始されている。
会津の瓦師の子孫という佐藤伊兵衛が、瀬戸、信楽など各地の陶産地を転々として大阪まで来た。ここでどうした因縁か鍋島藩の御用商人布屋から、その菩提寺高伝寺への添書を得て肥前に下っている。高伝寺からの磁器伝習は出来ないので、その寺男になりすまして皿山へ何度となく往復した。そして、その製法を探り得たので、長崎に行って呉須その他の材料を購入して帰途についた。会津に帰り着いてから藩の保護の下に磁器製造を開始した。寛政十年のことである。
(五)十八世紀に於ける三つの文様
柿右衛門家は初代が寛文六年(一六六六)に死去してから暗い時代を迎える。二代は初代より先に死に、三代も初代死後六年目に他界し、死後一年目にお道具山は大川内山に移されている。後を継いだ四代と五代が凡庸だったのか、家運は傾いて遂に延宝三年(一六七五)には藩用を差し止められた。元禄四年(一六九一)に五代は三十二才で死んだ。その後四年目に相続した六代は五才だったため、叔父の渋右衛門が後見することになった。この叔父は抜群の名工であった上、刻苦勉励六代を守り立てたので、十八世紀の初め頃から優秀な製品が出来て立ち直ったのである。差し止めから約半世紀後の享保八年(一七二三)に藩用が復活している。そして、安永三年(一七七四)には八代柿右衛門は藩主治茂にお目見えを許されている。この時期以降幕末までを西田宏子は柿右衛門様式の第四期としている。 だが、「未だ明らかにならない点が多いので、将来この時期がもっと細かく分類される」として研究を将来に委ねている。
矢部良明は鍋島様式を初期、盛期、後期とに分類している。時代的には初期は十七世紀、盛期は十八世紀、後期は十九世紀に当たる。十八世紀即ち、盛期鍋島様式をまとめて矢部はは次のように述べている。
「初期以来、盛期でも白磁に青磁、そして若干瑠璃釉や褐釉がくわわり、基本的には染付に赤、黄、緑の三色の釉だけで表現される鍋島文様は、色彩が技術的に完璧であるばかりでなく、不純な色合いが持つ美しさが認められないだけに、様式美が退廃におちいる危険性が希薄であった。それゆえに、どこまでも鍋島調は健康美に満ちている。
その情緒は四季でいえば、いつも春の気分でつらぬかれ、夏や秋、冬のもつ別趣の情感が鍋島焼にはないのである。情調はどこまでも雅びであり、うららかである。盛期にいたってさらにこの表現が優美なものとなったが、基本はかわらない。筆舌につくしがたいほどの沢山の文様が工夫案出されていながら、その文様はつねに他の追随を許さぬたくましい装飾意欲をもって、鍋島ならではの様式化がおこなわれ、比類のない、独特の唯美の世界に染めあげられてしまう。」と
十七世紀の後半から明末中国の染付や色絵磁器に先ず啓発された上、当時庶民の絵画として人気を呼んでいた浮世絵版画とオランダ東印度会社などからもたらされた異国趣味を巧みに取り入れた古伊万里様式は、十七世紀後半から十八世紀初頭まで、柿右衛門様式と共に対欧輸出磁器の花形となって黄金期を迎えたのである。 だが、十八世紀後半にはオランダ東印度会社の輸入中止などで全く途絶したことは前章でも記述した。
その後の古伊万里はどうなったか、有田町史陶芸編から見てみよう。
「古伊万里が延宝・元禄・享保・宝暦という黄金期を過ぎると、国内の需要はいちだんと高まり、とくに庶民階級にまで普及したので、分業体制はいっそう進み、量産時代に人った。その結果として、成形もやや粗雑になり、格調の鈍い型物も作られている。したがって明和元年(一七六四)前後から文政十年(一八二七)前後までの製品を古伊万里爛熟期として分類することができる。この時代には庶民層によろこばれる染付や色絵の(中略)大衆的な日常の雑器が多量に生産されている。中国的な趣味を離れて、いかにも日本磁器らしい古伊万里が庶民層の日常生活用具として普及していった時代であった。」
第五章 十九世紀前半の皿山
(一)瀬戸の磁祖加藤民吉のこと
副島勇七から磁器の技法を伝授されたものの瀬戸の磁器への道は遠かった。瀬戸の陶器の歴史は古い。仁治三年(一二四二)に加藤四郎左衛門景正がこの地の良質の陶土に着眼して窯を築いたことからはじまる。
延宝年間(一六七三-八○)尾張藩主徳川光友は瀬戸焼の原料祖母懐の土を藩の御用窯の外一切使用を禁じた。又、陶家には一戸に付きろくろ一つと制限した。そこで戸主でない一家の者は鋤鍬をとって百姓になるか、土方人足になる者が多かった。
寛政十二年(一八○○)頃、当時尾張国熱田新田の開墾奉行だった津金文左衛門胤臣が新田の開墾地を巡視中に、鍬使いがとても下手な一団の人夫がいるので、その素姓を訊ねた処、元瀬戸の陶家の者だと答えた。更にリーダー格の加藤吉左衛門を呼んでその事情を糺したのである。 彼は次男民吉の就業のため、人夫をさせていると答えた。
たまたま、胤臣は中国から伝来の原書で南京石焼の口伝を読んで磁器のことを考えていた。そこで、翌年吉左衛門父子を瀬戸へ帰して、庄屋をしている本家の加藤唐左衛門高景を協力させて白磁製作の研究に没頭させた。唐左衛門も副島勇七が加藤久米八や同忠次等に磁器製法を伝えた当時から同じ希望を抱いていたが、適当な原料を得られずにいたのである。
それから彼等は胤臣の原書にヒントを得て知多郡翔缺村の原料を吟味し刻苦奮励数十回も試焼した末、漸く似よりの盃四・五を焼き上げ胤臣に示した処、彼は非常に喜んで早速熱田新田の古堤に築窯しようとした。
ところが、瀬戸では本業の陶器に影響すると反対が起こった。この間に立って当惑したのは庄屋の唐左衛門だった。従来の瀬戸窯焼達が瀬戸の死活問題だと騒ぎ立てるのに、代官の水野権平も同調した。だが、唐左衛門の斡旋によって藩家老送水甲斐守が裁断して、これを熱田でなく瀬戸でやることにした。胤臣も承諾してこの事業を新製と称して陶家の次男以下にやらせると定めたのである。
そして、享和二年(一八○二)十一月、瀬戸で初火入れをした。だが、結果は甚だ不完全だった。翌年、胤臣は七十五才で死去した。衆議は誰かを有田へ潜行させることになって民吉が選ばれたのである。彼は必ず秘法を習得して帰ると誓って享和四年(一八○四)二月、瀬戸を出立したのである。
その時の民吉の行動は用意周到だった。 尾張国愛知郡菱野村生まれで、今は肥後国天草の東向寺の住職をしている天中を頼って、天草の高浜に上陸したのである。
天中は民吉の目的と志を聞いて、この地の窯焼上田原作に周旋した。彼はそこで半年間一生懸命に働いた。だが、上田は肝心の磁器の施釉法だけはどうしても教えてくれない。そこで或る日、民吉は長崎の諏訪祭を見たいという口実で天草を去った。
懐中には天中の添書があったので、彼は平戸領佐世保村の西方寺を訪れた。文化二年(一八○五)のことである。西方寺は折尾瀬村の薬王寺を紹介してくれたので三河内の窯焼今村幾右衛門方に職人として住み込んだ。だが、間もなく藩の人別調べがあって、他国人は一切この地に滞在させてはならないという布告があったので、又、薬王寺の寺男に戻ったのである。
その内に彼は江永山の某女を妻としてこの地の環境に溶け込んだ。そして、この地の久右衛門という窯焼に住み込むことが出来た。だが、当時の江永山の製磁技術は三河内より随分遅れていることが分かり、三河内へ帰る機会を窺っていた処、本場の有田は一里半ほどの道のりと聞いた彼は、伝手を得て有田皿山に潜入したのである。
彼は泉山の築窯師堤惣左衛門の家に寄寓することが出来た。そして、丸窯の構造や還元焔の焚き方などを熱心に見学していた。だが、余りに真剣な態度を怪しまれているのに気付いた彼は慌てて薬王寺に帰ったのである。
しかし、ここでも身辺に危険を感じた彼は、妻の親の注意もあって同年十二月、妻と共に出奔して佐々村の市の瀬鴨川の窯焼福本仁左衛門方に身を寄せた。 仁左衛門は民吉の精勤ぶりが気に入り、胸襟を開いて釉薬その他の製法を詳しく伝授してくれた。これで全くその目的を果たした彼は妻に因果を含めて文化四年(一八○七)単身この地を去った。
彼は帰途長崎から天草に寄って東向寺を訪れて厚く謝した後、上田家へ参上し先に欺いて去った無礼を深く詫びてから自分の素姓と目的を明かしたのである。それを開いて却って感動した上田は自家秘伝の赤絵付けの法を伝授したといわれている。
彼は瀬戸への途次、肥後国八代の高田窯を見学して同年六月十八日、三年ぶりに瀬戸へ帰着したのである。彼が製磁の法を得て帰ったと、瀬戸は勿論、熱田奉行で胤臣の嫡男である津金元七胤貞の喜びは一方でなかった。
その三年後の文化七年(一八一○)に瀬戸磁器の祖加藤民吉保堅は五十三才で卒去した。
平戸藩では民吉を匿ったという罪によって、薬王寺第十三世の住職雄山泰賢は、国法に従い傘一本を持って国外へ追放されたのである。又、佐々に残された民吉の妻女のその後のことについては何ら伝えられていない。 その後瀬戸では木節や蛙目などの優良な窯業原料が次々に開発されて民吉がもたらした磁器を益々盛んにしたのである。そして、それから百年後の二十世紀初頭、有田が独占していた磁器日本一の座を奪う程の強力なライバルになって今日に至っているのである。
(二)皿山住民が神に祀った名代官
皿山代官所は正保四年(一六四七)から廃藩置県の明治四年(一八七一)までに百二十五年続いて、代官には四十一名が任じられている。その中で退官後皿山の住民によって生きている間に神に祀られた代官がいる。それは二十一人目の成松万兵衛信久ただ一人である。李参平碑の南、連華石山の尾根にその祠の石碑が今もある成松社がそれである。
信久は文化十二年(一八一五)三十八才の時、皿山代官に任じられ、文政八年(一八二五)まで十年余その任にあった。そして、任満ちて佐賀に帰った後、皿山の住民達がその徳を追慕して建てたのが成松社である。だが、明治になって祠の石質が悪く湮滅(消えてなくなる)寸前だったので、明治二十三年、有田の有志達が計って陶山神社の裏公園に頌徳碑を建立した。横尾謙が撰文したその碑文によって成松信久の業績を追うことにする。 信久は、元亀元年(一五七○)豊後の大友宋麟が大軍を以て竜造寺領の佐賀へ侵攻して来た時、鍋島直茂と共に今山の大友本陣を夜襲して大友軍を敗りその将大友八郎を討ち取るという戦功を立て、百武志麻守や江里口藤七兵衛等と竜造寺家の四傑と称された成松遠江守信勝の十一世の孫として、安永七年(一七七八)佐賀に生まれた。そして、十六才にして父の後を継いで二十三才の時、評定所究役試補になっている。
文化十二年(一八一五)代官として有田に赴任したのである。当時の有田皿山では祭礼や雨乞いには必ず浮立を打って囃す慣習だった。そこで皿山の十区はどの区も大小七・八個の鉦と横笛、大太鼓等一組づつを備えて、練習を怠らなかった。そして、神事当番は二区で五年に一回回ってきた。
中でも上幸平は十二人担ぎの一番鉦の大きいのを誇りとし、本幸平は三番鉦の音色を自慢にしていた。だが、奏曲では白川が一番上手といわれていた。
神事や雨乞いの時、道でこの二区の浮立がぶっつかると、曲は忽ち急調子になって必ず大闘争を起こして血の雨を降らすことさえあった。それ程当時の皿山住民の気風は荒くて殺伐だったのである。赴任早々の信久はこの住民の気風を温順なものに変える事が治政の第一歩だと決意した。
そこで彼は部下に命じて、日を定めて同じ年に神事当番になる二区づつ五組の浮立を陶山神社の神前に集合させて囃させることにした。そして、当日は神殿の正面に据えた床几に信久が座して観覧することになった。代官の目の前であるから奏楽が終るまで争いは一つも起こらなかった。 これは役人が事前に代官が目的とする意向を全員に知らせていたからでもあろう。だが、この催しのあってからは皿山の浮立喧嘩は全く影をひそめたという。
又、ある裁判事件では、信久と親しい人が、入浴している代官の背中を流しながら、自分の方に有利になるよう裁決を頼んだ。だが、信久はそれを取り上げなかった。文化文政の頃世は平和で華やかな奢移(ぜいたく)が流行していた。だが、宋藩の財政はひどく窮乏していて、皿山代官所年間の庁費は僅かに五石に過ぎなかった。そこで庁舎の屋根棟が破損して執務にも支障を来たすので、信久自ら篠竹を伐って来て縄を挿したり莚で縛ったりして雨露をしのいで、ひたすら陶業の繁栄と住民の福利とを念として他事はなかった。
陶業に対する彼の施策で特筆すべきことは窯焼の製品々種別制度を設けて、他山が追従出来ないまでに熟練させて各山の特色を生かすことにした。そのために各山の製品々種を限定したのである。即ち、南川原山は型打丼類、外尾山と黒牟田山は型打角鉢及ぴ小判型皿、広瀬山は漱丼と八角丼、応法山は神酒瓶及び小鉢、市の瀬山は六角丼等である。この制度は有田内山にも行なわれ泉山、上幸平、中樽は膳付物即ち食器類とし、大樽は丼と鉢、白川、本幸平、稗古場は皿丼に花瓶と定め、岩谷川内は火入れと弁当重に限定した。
同時に大川内藩窯の製品様式を侵すことを厳禁した。例えば高台皿の形状及びその櫛手文様、或は梅花を撒布する模様などや、染付茶碗に清楚な春蘭を描く様式等である。 安永三年(一七七四)有田焼の朝鮮向けの販売を試みた者もいたが、朝鮮の民度が低かったので、安い等外品でなければ売れなかった。その頃佐賀藩は対馬藩主を経由しての朝鮮輸出を認めていたので、藩主宗氏は伊万里の陶器商へ朝鮮用達を命じていた。だが、業績が上がらないので、その後稗古場の窯焼北島万吉と赤絵町の北島源吾の二人が専ら扱っていた。それを文政三年(一八二○)成松代官は朝鮮向け輸出の権利を、赤絵町の北島にその一手営業として許可している。
在任十年の間に皿山住民の闘争心の強い剽悍な民心民俗を協調心に富んだ温順さに変えたことと、各山に品種別生産制を断行して、分業専門化による陶技の向上を計ったことは正に信久の比類ない業績といえよう。彼の死去の年は頌徳碑文にも明らかでない。
だが、その中には「死するや」でなく「任満つるや」住民がその徳を慕ってとあることからして、彼が佐賀に去って直ぐだと想像されるが、三年も経過した後だとは思えない。何故かなら、三年後の文政十一年(一八一八)には有田皿山の内山全山は未曾有の大火のため、灰になって仕舞っているからだ。 従って彼は生存中に祠に祀られたことになるのである。
ちなみに、皿山代官最後の四十一代の百武作十兼貞は信久の子息である。
(三)文政の大火と皿山全滅
信久の治政宜しきを得た皿山は、住民の気風も温順になり、又、陶業も彼が断行した品種の分業専門化によって品質は向上して春風駘駘蕩たるものであった。しかし、この状態は長くは続かなかった。信久が任満ちて皿山を去ってから三年目の文政十一年(一八二八)八月九日、前代未聞という強大な台風に襲われ、それが大火を引き起こしたのである。
古い文書にはこの台風を颶風と称しているから、風速は三十米以上と思われる。内山では九日の正午頃から北東の風が吹き荒んで雷を伴った豪雨になった。屋根瓦が吹き飛ぶ中に岩谷川内の窯焼山口森吉方の素焼窯の火が飛び火して大火となった。火焔は金比羅山を焼き越したのである。そして、忽ちにして全内山を舐め尽くした。予て火には馴れている住民も手の施しようがなく、全内山は阿鼻叫喚の果て、岩谷川内四十戸、白川百戸、泉山の年木谷十戸を残すばかりだった。 さしも繁華と言われた千戸の焼物の町はすっかり跡形も無くなったのである。
町中で焼け残ったのは造りの頑丈な数軒の土蔵だけだった。それに物凄い豪雨のため、河川は氾濫して洪水になった。当時町には橋梁は無く飛び石と仮橋だけだった。だが、仮橋も全部流失して人々は逃げ惑う有様だった。登窯の中に逃げ込んで焼煙のため、窒息死した者もいた。中には高手の井戸に忍んで漸く一命を得た者もいた。この時不幸にして焼死や溺死した者は内山で五十名を越えた。
佐賀藩全体の焼失家屋は千六百四十七軒と記録にあるから、皿山の八百五十軒はその半数以上である。この台風は九州から四国、中国、北陸、東北地方まで荒らした。だが、佐賀領の被害が最高で、石高三十六万右の九十%三十一万石の損害を蒙っている。次が八十%の加賀七十八万石。
七十%の仙台四十三万石、肥後三十七万石、久留米十四万石、阿波十七万石。六十%が薩摩四十一万石、越前十四万石。五十%が備前十四万石とあって、如何に全国的に被害が甚大であったかが分かる。当時の佐賀藩は手許不如意だったが、藩主斉直は三千両を救恤(助け恵む)している。
皿山では殆どの登窯の屋根が焼失して白川の一窯だけが無傷だった。辻家を初めとして各旧家の古器珍什は勿論系図などの文書は全部灰になって仕舞った。又、寺々の過去帳も焼失した。だが、白川に在った代官所は難を免れているようである。
全山焼土と化して焼け出された数千の難民達は住むに家なく、着る物も食う物もない状態だった。そこで焼け残った白川と年木谷の窯焼の門前には夜な夜な難民が群がった。 これらの窯焼は毎日家内総動員で握り飯を作ったり、粥を炊き出したりの救恤に忙殺された。又、近くの農村の畑から野菜や果実を盗む難民もいたと言う。
焼失を免れた岩谷川内の質屋正司庄治は、大火のため貸金三百両を失ったが、質流れの衣類二百点を初め家財と有るだけの米麦二十俵を全部難民に与えた。そして、自分は全身代三百両以上を空しくしたと言う。庄治は通称であって諱を考祓、号を大谷にちなんで碩渓とした。だが、墓碑銘にはこの号であるから以下碩渓として述べる。
この大火によって家も職も失った工人達で外山、大外山や波佐見、三河内へ移住する者が続出した。中でも大外山の小田志山へは百人以上が転住している。
その結果は、当時最高だった内山の技術の流出によって内山以外の肥前各陶産地の製品を急速に向上させた。
肥前陶磁史考の著者中島浩気はこの現象を、東京大震災の時下町の住民が山の手へ大量移転して今日の大東京を現出したことに例えて、内山崩れの工人散布が今日の大肥前窯業圏を形成する動機になったと述べている。興味ある見解と言えよう。 翌文政十二年(一八二九)藩は、火災にあった佐嘉城本丸の復旧工事を始めた。だが、有田皿山からの献金は免除した。又、藩は皿山の窯焼の復旧に助力してその資金を低利で貸与した。諸制度も大火以前通りとして、改めて窯焼名代札二百二十、赤絵屋名代札十六、陶器商人札十八を下げ渡したのである。
(四)正司碩渓のこと
この大火の時、難民を救うのに私財の殆どを投じた正司碩渓は江戸期の有田が生んだ、最も傑出した学者であった。この人の生涯を草場佩川が撰文した墓碑銘に基づいて、有田町史と肥前陶磁史考との記述で補足しながら追うことにする。
碩渓は諱を孝祺、幼名を米十、通称を庄治(町史には正治とある)と言い、家が大谷に近いので、碩渓を号とした。又、南鴃とも称している。出雲の尼子氏の子孫で、その祖は肥後を経て武雄西山村に移り、その後有田皿山に移る。そして、彼は寛政五年(一七九三)有田で生まれた。
家業は曾祖父源七郎が始めた、絵書きが使用する絵筆の販売だった。兄の儀六郎は窯焼になったので、彼が家業を継いで当時の金融業である質屋を始めた。 その傍ら読書を好み、特に伝記類については実に広範に渉っていた。家業にも励んだので、かなりの財をなしたことは彼が手控えにしていた「永代帳」によって明らかである。又、家の庭に小さな祠を建てて聖人達を祀ると共に家業の合間に近くの子弟達に教育を施したので、遠近から教えを請いに来る者が絶えなかった。
前述した通り文政の大火で財を空しくしたものの、家業は居宅と共に三男の碩斉に譲った。そして、自分は家の西に当たる岡を開墾して三軒の家を作って人に農業を営ませた。そこに別に小庵を建てて住いとし、専ら著述と読書とに精力を傾注した。これがこの辺りを開、即ち「ひらき」と称する由来である。
天保二年(一八三一)二十巻からなる「経済間答秘録」を著わしている。儒学に基づく経国済民の書である。
そして、予て親交のあった草場佩川を通じて、佐賀藩の冨強策を藩主直正の側近古賀殻堂に提出している。佐賀藩の天保改革にもこの策が取り入れられたことは言うまでもない。
天保三年(一八三二)四十才の時、江戸への遊学の旅に出た。途中諸藩に立寄り、江戸では幕府の儒官佐藤一斉や神田お玉が池の詩人大窪天民、儒学者の安積良斉等と交際した。これらの人は彼より二十才以上の年長であるから、学ぶところも多かった。帰途大阪では町奉行所与力の大塩平八郎中斉を訪ねている。同年輩であり、儒学でも朱子学より開明的な陽明学者として著名な大塩の経論に共鳴したのか数ケ月も逗留している。それから二年後に大塩の乱が起こって、翌年の天保八年に大塩は自刃して果てたのである。
帰国後は益々著作に励んで天保六年(一八三五)には古今武将の言行録的な「豹皮録」百巻を著わした。 これには広瀬淡窓、帆足万里、篠崎小竹、草場佩川等当時の儒学者達が序文や跋文を寄せている。この書を読んで感動した平戸藩主松浦肥前守源煕は推賞して左の和歌一首を贈った。
やますみは人しらねどもかきおける文こそ四方の海の果てまで
彼は平戸藩と大村藩には時々招かれて兵学を講じていたのである。又、伊豆韮山代官江川太郎左衛門担庵が長崎から砲術の師として高島秋帆を招聘した時、秋帆の親友である彼にも共に誘いがあり、再三出廬を奨められた。だが、病身を理由に断わっている。
嘉永四年(一八五一)には「家職要道」八巻を著わして商人の日常道徳と家業繁盛の道を平易に説いている。この本は全国的に広く読まれて彼の代表的な名著である。そのことを証明する事柄がある。
それは大阪の時計商生駒権七という人が、これを読んで感動し自分の修身斉家の道はこの本にあるのだとして奮励努力した結果巨万の富を成した。これ偏にこの書のおかげだと由来を述べて謝し、碩渓の子孫へ金若干と置時計を明治四十年代に贈っている。更に、大正二年には明治天皇聖徳記二百部に金百円を添えて故人の祭祀料にと贈っているのである。
その他の著書としては、東遊百絶一巻、武家七徳十八巻、大村路日記一巻、環堵日記二十巻、天明録五巻、視聴漫筆一巻、セーアルテルレリー二十一巻、製硝秘録二十一巻、軍法秘書、地理秘書各一巻、碩渓遺稿三巻がある。佩川はこれについて、どの書も巻を重ねると等身大に達する程ですべて国家有用の書であると記している。 開の山荘に彼を訪れる天下の有志墨客は後を絶たなかった。三菱の創業者岩崎弥太郎も筆跡を残している。又、安政の初め、文政の大火の経験をふまえて設計された岩谷川内の眼鏡橋が出来ている。これも碩渓が監督して大谷や猿川の石を運んで堅固に構造されたものである。
彼は生来多病で危篤状態に陥ることも数回あった。だが、世を憂い人を救うの志節を以て耐え抜いてきた。しかし、安政三年(一八五七)春、病になって中々癒えず翌年十二月、六十五才で死去し、彼の山荘のある開に葬られた。墓碑の表には碩渓先生の墓とあり、その側面と裏面には佩川の碑文が刻まれている。
(五)天保の頃の有田皿山
文政大火の後、皿山は全山あげて復旧再生へと懸命に努力を続けていた。一方三十一万石という被害を蒙った佐賀藩も、藩始まって以来という最悪の危機に直面していた。フェートン号事件の不始末や放漫な政策など失政が続いた九代藩主斉直の後を直正が継いだのは天保元年(一八三○)のことである。
そして、初の御国人りとして、当時十七才の直正の行列が江戸を出発したのは、三月二十二日であった。一行が品川宿に着いた時、江戸の債権者の商人達が押し掛けて来て借金の催促をしたため、身動き出来なくなった。江戸屋敷の金庫は空で供の者連の支度金も払えない有様だったのである。この騒動で年若い新藩主は藩の財政事情を知ったのである。 佐賀に着くなり直正が調べた処、文政の台風の被害で歳入は激減しているのに、長崎警備や江戸かぶれで藩全体が派手になった生活慣習のため、支出は変わらないので、藩財政は正に破産寸前という最悪の状態だった。そこで、国入り早々の五月一日、直正は質素倹約令を布告した。
翌天保二年(一八三一)には古賀殻堂が、碩渓の倹約富強論を取り入れて起案した藩の再建計画を採用して直正は本格的な藩政改革に着手した。それは勤労と倹約を奨励すると同時に藩の特産である米と磁器の積極的な産業奨励政策の実行であった。倹約については、具体的に食は粗食として朝は味噌汁と漬物だけ、昼と夜には干し魚か魚の煮焼きの物程度をつける。
衣は木綿以外は着てはならぬ。婦人の銀簪は法度。冠婚葬祭の徹底した簡素化。芝居興業など遊芸の停止など思い切ったものであった。真夜中に花嫁が巡見の下目付から絹の衣裳を剥ぎ取られた上、銀の簪も取り上げられるという事件もあった。
このような改革が強行されている最中の天保七年(一八三六)全国的な天候不良のため、飢饉になって折角復興途上の皿山を脅かしたので、翌年一月、直正は皿山代官の請いを容れて内庫所の資金を窯焼に貸して救済した。
大火から飢饉という最悪の状態の続いた皿山の人心は、折角成松代官によって温順になったのが又、荒んできた。それに代官に人を得なかったため、物情は騒然となって紛議が絶えなかった。 そこで藩は、天保九年(一八三八)上幸平の皿出会所の中に教導所という部署を設けて役人二名を新たに置いて、厳罰を以て取り締まった。
しかし、直正は法による規制だけでは十分でないとして、民俗、民心を精神的に教導する目的で藩内有数の儒学者草場佩川を教導所へ派遣したのである。
天保年間、漆器に蒔絵を施してオランダ人との間に貿易をしていた長崎の漆器商浅田屋茂兵衛というのが陶磁器に蒔絵することを創始した。中野原の豪商久喜与次兵衛昌常はこの浅田屋と提携して有田焼を長崎へ送って販売していた。その頃オランダの船長の依頼で与次兵衛は本国から送って来たという磁器を鑑定した処、有田焼に相違なく、百余年前に嬉野次郎左衛門が密輸したものと思われた。
これが機縁となってオランダ領事と交渉した結果、久富の直接輸出の商談がまとまったので、藩庁へ願い出てオランダ貿易の一枚鑑札を許された。同時に長崎に支店を開設した。天保十二年(一八四一)のことである。富村勘右衛門の密輸事件以来、柿右衛門の外は有田焼の輸出が久しく途絶していたのが茲に復興の道が開かれたのである。
同年八月、直正は農民経済の基本は農地の均分化にあるとして、西松浦郡に限って加地子(小作料のこと)を向こう五ケ年間三分の一だけ軽減すると命令した。 同時に小作人に対しては小作料の軽減された分を貯蓄して土地を買い取るよう命令した。世人はこのことを加地子バッタリと称した。打撃を受けた主なる有田郷の大地主は中野原の久富与次兵衛、新村の前田儀右衛門、松村丈右衛門等であった。終戦直後のマッカーサーによる農地改革を先取りしたような思い切った改革であった。
第六章 幕末から廃藩置県までの有田
(一)幕末時有田焼の流通
幕末という時期は嘉永六年(一八五三)ペリーの浦賀来航から慶応三年(一八六七)の大政奉還王政復古までの十五年間とされている。この短い間に有田は、文政の大火とそれに続いての天保飢饉によって壊滅同然の苦境に陥っていたのを見事に克服して最も充実繁栄した時期を形成している。その原動力は何であったのだろうか。
それは藩による流通の統制であったといえよう。即ち、嘉永元年(一八四八)藩は山方の中に国産方を置いて長崎のオランダ人へ有田の磁器を主とする藩の特産品の販売を積極的に始めた。翌年六月から国産方を山方から分離して独立した部署として、有田焼の製造を奨励すると共に、皿山や大川内の陶磁器流通に直接関与したのである。 そして、嘉永六年には長崎奉行の認可の下に、長崎の豊後町に佐嘉商会を設立して直輸出の道を聞いた。その翌年四月には長崎聞役(藩の長崎駐在連絡責任者)鍋島新左衛門にその取締を命じている。一方皿山でもこの時期、復興に伴って数多くの名陶家を輩出している。禁裏御用達の辻喜平次、宗伝の子孫である泉山の深海平左衛門と同乙吉、大樽の田代伴次郎、白川の南里嘉十等である。
藩から貿易の一枚鑑札を得ていた久富与次兵衛の長崎大村町の支店は、当時久富与平が後を継いでいたが、加地子バッタリのため、家産も傾き経営に行き詰まったとして安政三年(一八五六)にその鑑札を本寺平の田代紋左衛門へ譲渡している。こうして田代は英国貿易の名義で有田焼輸出の利権を占有することになった。
この占有に対して他の同業者から反撥もあった。だが、剛気の紋左衛門は屈することなく業を益々拡張して、弟の慶右衛門に長崎西浜町の支店を運営させた。
又、安政六年(一八五九)神奈川の開港後、横浜にまで支店を設立するに至った。
その後長崎の佐嘉商会主幹の松林源蔵は藩主閑叟の内意を合んだ上、上海進出を企画し、久富与平と田代紋左衛門とに交渉した。与平はその頃英商グラバーと計って高島炭鉱の経営に専念していたので固辞した。そこで紋左衛門独りでその衝に当たることになった。そして、齢は若いが、多少商売の経験もあり、英語も少々話せる上に漢学の素養があるので、中国人との筆談が出来る手塚五平を田代兄弟は支店長に推薦した。 慶応三年(一八六七)小城藩所有の大木丸二百屯に、高島炭鉱から与平の石炭を下積とし、有田焼を上荷に積んで五平以下三十余人が長崎から上海へ向かった。そして、オランダ領事の斡旋で英租界小東門外三馬路の地に開店したのである。だが、その後の維新の大変動によって田代紋左衛門の単独経営となり、商号も田代商会と改めて専ら有田焼を販売して、その声価を高めた。
以上が幕末期の有田焼輸出の概況であるが、国内流通についても藩の専売制度が嘉永二年(一八四九)頃から本格化している。その地域は京都、大阪、堺、尼ケ崎、西宮、兵庫に近江、大和、河内として、佐賀藩の大阪蔵屋敷に水揚げされた有田焼は藩が指定した仲買商三十九名の入札によって販売されることになった。その間伊万里の商人は有田焼の自由販売を主張し続けたという。
又、王政復古後の明治元年(一八六八)に当時改革派といわれていた深海平左衛門、百田多兵衛、深川栄左衛門等の主張を藩は儒医西岡春益の斡旋によって認め長崎貿易鑑札を十校に増やした。田代紋左衛門の外に泉山の深海平左衛門、百田多兵衛、鶴田次兵衛、上幸平の石川太左衛門(酒屋)大樽の平林伊平、本寺平の深川栄左衛門、武田弥吉、赤絵町の富村森三郎(赤絵屋)岩谷川内の山口伊右衛門の九名である。(括弧のないのは窯焼か商人)
この陶磁器の専売制度について有田町史は「鍋島直正公伝」から左の通り引用している。 「佐賀藩主鍋島直正は天保元年(一八三○)家督を継いでから十年間財政困難の時代を切り抜けて歳費に余裕を生じ、更にまた十年の努力を払って軍用金貯蓄の余力を生じたので、嘉永二年国産方を独立させ、経費として正銀五千貫目を十ケ年間支出して殖産興業政策を実施する事にした。国産方はその利殖として得た利益金を以て砲台の構築や銃砲製造の資金を作ることを目的として設置されたものでなく、全く殖産興業のみを目的として設置されたものであるという。」
この一文は国産方の販売によって得た利益金は軍事力の強化には充てずに殖産興業にのみ充当したと強調している。
だが、これはあくまで建前の言葉に過ぎないと思われる。というのは町史を編集した宮田幸太郎氏によればこの幕末十五年間の貿易に関する資料は一片だに残ってなくすべて故意に湮滅(分からないようになくしてしまうこと)されたものと想像されると嘆いていた。又、作家の司馬遼太郎も同じことを述べている。
僅か二十年足らずの間に佐賀藩の軍事力は驚異的に発達強化されている。反射炉も幕府より七年も早く完成して新鋭の銃砲を製造し、最後には最新鋭のアームストロング砲三門をイギリスから購めた上、同一品の製造にも成功している。又、軍艦も数隻購入している。
そして、幕末の終期、佐賀藩の軍事力は、当時世界で最強といわれたプロシヤにも匹敵したと司馬遼太郎は書いている。 又、閑叟自身が側近に語ったこととして、我が藩は他のどこの藩と戦っても一人の兵を以て十人の敵に対抗出来ると豪語していたという。
このためには莫大な資金と武器購人のルートとを要したに違いない。司馬遼太郎はその金額は年間にして十五万石に相当するとして、その大部分が藩の専売による有田焼の密貿易より得たものと推定している。又、武器のルートは、長崎に常住してその店を事務所として藩に提供していた久富与平と、安政五年から長崎に定着したグラバーとによって形成されたものと想像される。
与平は貿易の鑑札を田代に譲渡したことになっている。
だが、これはあくまで表向きのことであり、表面には田代を出し武器購入などに関わる商行為は与平等の協力で藩が直接に関与したのであろう。有田皿山がこの時期空前の繁栄を見せたのは、このことに原因しているといえよう。そして、幕府倒壊後直ちに貿易鑑札を九枚も増やした事も、隠密にする必要がなくなったので、これまで協力した者を表面に出したに過ぎないとも言える。 ともあれ、上野の戦争で幕軍を壊滅させて、幕軍が最後の牙城とした会津若松城を陥落させたのは、アームストロング砲であった。又、榎本武揚の幕軍を函館五稜郭で敗って討幕戦を終らせたのも佐賀の海軍であった。この大砲も軍艦も吾が有田の磁器がもたらしたものである事は有田町民として銘記すべきことと思うのである。
(二)赤絵屋に関連した二つの事件
オランダの商人達は純白の素地と軽い薄手の焼物を好んだ。それには有田焼より三河内焼が適していた。与次兵衛の頃から、外国向けのコーヒーセットなど普通品は三河内に素地を注文して有田で赤絵を付けていた。勿論これは佐賀藩の禁制だった。だが、長崎奉行は国の利益のため、見て見ぬふりをしていた。紋左衛門も三河内素地を仕入れて数軒の赤絵屋達に異人向きの赤絵を描かぜていたのである。
紋左衛門の独占に反対していた窯焼違は慶応二年(一八六六)上絵付けした彼の未焼品を手に人れ、証拠の銘がはげないよう紙を貼って皿山代官に訴え出た。この時の代表は泉山の深海政之助、大樽の手塚倉助と平林伊兵衛の三人だった。代官はどう勘違いしたのか「紙を貼ったのは代官が証拠隠滅するのではないかと疑った処置だ」とかんかんに怒り、三人を殴りつけて逮捕した。 おさまらないのは窯焼達で近くの勧請寺(今の陶山神社社務所)に立て篭り代官に抵抗した。一同は本藩の公平な裁決を受けようと全員佐賀表へ押し掛ける準備を始めたので、慌てた代官は代表三人を釈放して騒ぎを鎮めたのである。一方、紋左衛門の子助作も逮捕され、田代屋の依頼で三河内素地に絵付けしていた四人、即ち赤絵町の北島源吾、大樽の小島理兵衛に辛島弘助、稗古場の古田森吉等は青竹閉門に処せられた。紋左衛門が追及されなかったのは、既に苗字帯刀を許された士分だったことと貿易は助作名義だったからである。紋左衛門は三河内素地の在庫品をひそかに近くの薬研川に捨て誠意を示したので、助作はやっと釈放された。だが、さすが豪気の紋左衛門もこのショックで事業を放棄しようかと思ったという。これが第一の事件である。
文久二年(一八六二)長崎奉行高橋美作守から有田皿山代官石橋三右衛門へ公文が届いた。それには「文政の大火後、有田焼には粗悪品があって、オランダ商人からとかくの批判が起こっている。十分気を付けてほしい」とあった。
早速、代官は赤絵屋と窯焼達を集めた。外から苦情が持ち込まれるようでは鍋島藩の不名誉である。特に赤絵付けは最後の仕上だけに技術的な批判は赤絵屋の責任であると、警告した。ところが、この事件がきっかけになって問題は意外な方向に発展した。赤絵屋制度のあり方ををめぐって窯焼側から改革論が出され、皿山は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。 長崎奉行の批判をもっともだとする泉山の深海平左衛門、鶴田次兵衛、本寺平の深川栄左衛門達は「藩の厚い保護を受ける一子相伝の赤絵屋は身分と生活を保障されているため、技術の研究を怠っている。このままでは有田焼の名声を汚し、伝統ある赤絵は滅んでしまう。よって赤絵屋制度を再検討すべし」と皿山代官に分業廃止、窯焼との合併を主張した。
驚いたのは赤絵屋達で、今泉今右衛門(九代)等十六人は死活問題だと近くの桂雲寺に集まって、富村森三郎を代表に選び改革派と交渉した。「長崎奉行の警告は赤絵屋だけの責任ではない。言い掛かりをつけて赤絵屋の秘法を公開させようとしているのは越権行為だ」と言って反論した。
改革派も負けてはいなかった。「技術の優秀な細工人や染付絵書きは藩に登用されるが、これは一代限りだ。赤絵屋は武士と同様な世襲に甘えている。我々に赤絵付をさせたらもっと立派な赤絵を焼く自信がある。外国から見放されたら有田焼はどうなるか」とやり返したのである。
形勢不利とみた赤絵屋達は富村森三郎の義兄の北島橘次郎をして、皿山代官を派遣している多久邑主鍋島茂族へ左の通り直訴させたのである。「本藩の名代札によって二百年近くも色鍋島をはじめ赤絵付の秘法を守って来たのに、一部の異分子が御政道を批判し、赤絵屋制度を潰そうと計画している。」と。 この直訴によって皿山代官は茂族に呼び付けられ、報告を求められた。代官は自分の政治力を問われるとして、多久から帰ると直ちに「お上への政治批判はもってのほか」と、改革派の深海、鶴田、深川等を厳しく叱って沈黙させたので、赤絵屋制度は藩のこの圧力によって何とか命をとりとめたのである。
だが、これも束の間のことだった。七年後に明治となり、この日を待っていたかのように窯焼達は、明治四年(一八七一)深川等を代表として「天下は既に変わった。赤絵付の秘法を公開せよ」と赤絵屋に迫った。今右衛門等は「簡単に秘法公開はすべきでなく、細工人、窯焚きの分業があってこそ立派な焼物が出来る」と申し出を跳ね付け、又も桂雲寺に立て篭って窯焼との交渉には一切応じようとはしなかった。
これに憤激した窯焼約百人は「独占赤絵屋制度を廃せ。焼物は赤絵屋だけが作るものではない」と叫んで、竹槍や鎌などを持って桂雲寺を取り巻いた。代官は既に郡令に名も変わり旧幕時代のような権力はなかった。 だが、見過ごすことは出来ないので、百武郡令は仲裁に乗り出したのである。この仲裁によって窯焼も赤絵付けをする。赤絵屋も窯焼になれるということでやっと双方を納得させたという。
(三)最初の万国博覧会
有田焼が万国博覧会に出品されたのは一八六七年のパリ博覧会が初めてである。フランスから出品を勧誘された幕府は、各藩に伝達して参加を求めた。だが、幕府崩壊直前の各藩とも藩内政情が動揺している上に、鎖国観念が根強くて、応じたのは僅かに佐賀藩と薩摩藩だけだった。かねてから国産品の海外輸出の公然化を望んでいた佐賀藩は、これを絶好の機会として直ちに賛意を表したのである。
慶応二年(一八六六)藩主は皿山代官に出品陶磁器を集めるよう命じた。よって代官石橋三右衛門は内外山の窯焼と商人に命じて、急に慌ただしく在庫の見本を上幸平の西光寺に陳列させた。本藩からは佐野栄寿左衛門常民らが出張して来て、一万両の製品を買い上げた。この莫大な量の陶磁器を僅か二ケ月の短期間に荷造して発送しなければならないので、西光寺付近の民家数軒を借りて荷造出荷の作業場にした。 正月どころではなく大変な慌ただしさだった。万里の波涛を越えて運ぶのだから二重の木箱に納めるという厳重さである。そして、他の出品物と共に長崎から海路横浜へ回漕、ここで英国商船イーストルクイン号に積替えて、南阿ケープタウン経由でマルセーユヘ運ばれた。パリには後発の佐野一行と前後して到着した。
佐野等佐賀藩一行は、慶応三年(一八六七)三月八日、長崎出帆の英船ヒーロン号に乗船し、スエズを経由五月五日マルセーユ着。同七日パリに乗り込んでいる。なお、幕府使節団は将軍慶喜の代理として実弟の徳川昭武を団長とし、外国奉行向山隼人正以下随員など三十余名という大人数だった。
佐賀の一行は、佐野団長の下に販売主任として佐賀の豪商烏犀円九代の野中元右衛門、副主任は深川長右衛門、秘書格として精錬方の藤山文一、通訳として長崎致遠館の助教授小出千之助の五名である。
先年、閑叟の隠密の命の下に、当時長崎にいた久富与平が斡旋したグラバー商会の帆船に便乗して秘に英国に渡り、数年間その地に留学していた石丸虎五郎と馬渡八郎の両名も、通訳としてパリに呼び寄せられた。
当時フランスはナポレオン三世全盛の時であり国を挙げての催しだったので、会場の広さ十二万坪という未曽有の規模で豪華そのものであった。日本館では佐賀藩と幕府が同一場所に、薩摩藩は別場所になっていた。日本の茶店では桃割れ髪の美しい日本婦人がサービスに当たったので、爆発的な人気を呼んだ。
佐賀藩の陳列店には漆工金蒔絵の鍋島家定紋の杏葉が、有田焼の絢爛たる錦絵を背景にして中央高々と金色に光り輝いていた。薩摩の総主任岩下位治右衛門は自分達の陳列席には日の丸の旗と島津氏定紋轡の藩旗とを交叉して掲げた。 佐賀にも勧めたので、佐賀も日の丸と杏葉紋の藩旗とを島津氏に倣って掲揚した。その後、幕府の全権徳川昭武から抗議があったが、既に討幕を決していた薩摩は開会するまで撤回ぜず、幕府を無視して通した。しかし、佐賀はこの抗議には柔軟に対処して、幕府との友好関係を維持したのである。
そのためか、幕府の出品管理者である横浜の貿易商島田惣兵衛が佐賀には種々のアドバイスを与えてくれた。その発案で小皿に煎茶碗を載せてコーヒ碗、中皿に高湯呑を組み合わせモー二ングカップ、丸毛料に五寸皿を台にして台付スープボールになぞられたまではよかったが、上と下との絵柄が違うのもあって竹に木をつなぐ感があった。だが、それが却って妙だと大変な人気を呼んだ。又、大皿は額皿、大丼は洗面器、飯碗に水を満たしてフィンガーボール、徳利は花瓶だと説明した。
特に珍妙だったのは赤絵美人絵の盃をバター入れだといって平然と済ましたことである。中でも最も人気を博したのは、細口徳利だった。余りに評判がよいので用途を尋ねた処、これに金具を取り付けてランプスタンドにすると言う。又、猿面鳥帽子姿の舌だし人形がナポレオン三世の皇后の目に留まって、ご下間の上、多数御買い上げの光栄に浴したと言う。このように有田焼が圧倒的な人気を集めた上、欧州の専門美術家達を瞠目驚嘆させたのは、高貴なペルシャ絨椴とも見まごうほどに精緻で端麗な藩窯の色鍋島であった。 欧州人の嗜好も用途も全く調査研究することなく、在庫品を盲滅法に買い上げてぶっつけた有田焼は意外にも好評だったため、佐賀藩利益の大方は有田焼の売上げによって得られたという。
博覧会は六月三十日に閉会し、翌七月一日、アンデストリー宮殿で盛大な褒賞授与式が行われた。佐賀藩に対しては最高のグランプリ賞杯が、参加者にはネーム入りのメダルが授与された。しかし、パリ到着後間も無く客死した販売主任野中元右衛門が欠けている事は正に痛恨の極みであった。予想外の成功裡に使命を果たした佐野一行は帰途オランダに軍艦日進丸を発注し、意気揚々と帰国したのである。
(四)伊万里商社とワグネルのこと
明治二年(一八六九)版籍奉還が実施され、藩主は藩知事に任じられた。そして、皿山代官は皿山郡令となって百武作十がそのまま任命された。この最後の代官は名代官と住民から敬慕された成松信久の実子である。
翌三年、郡令は伊万里商人の買叩きを防いで窯焼の自立を助成し、製品の品質低下を防止するため、販売制度の改革を目的として有田と伊万里に伊万里商社を、横浜、江戸、長崎には夫々の地名を冠した支店を設立した。翌年、廃藩置県によってその機能を失い業を閉じるまで一年余に過ぎなかったが、商勢は極めて活溌だったのに、かくも短命であった。だが、これは江戸から明治に移行する過程での藩による肥前陶磁器の保護政策であり、又、経済統制でもあった。その意味では、昭和十五年から敗戦まで五ケ年間の国による戦時統制とも比較される歴史的な事だった。 その大要は左の通りである。
一、事前工作、即ち受入体制の確立
明治二年、鍋島閑叟の内命を受けた郡令は、川原善八と百田多兵衛を従えて上阪、この両名とたまたま大阪に滞在していた手塚亀之助等の協力を得て、これまで紀州藩御用商人を経由して販売していた旧幕時代の慣習を廃して藩による直売を断行した。そして、蔵元主任には鴻池庄十郎を命じ、大阪に二十、京都に十二の仲買問屋を指定した。
二、期間 自明治三年四月 至四年七月
三、理由と目的
維新の変革によって、藩内の諸制度が改革された結果、第一には藩による専売という保護政策が崩壊したため、資力の乏しい中以下の窯焼達は忽ち資金難に陥り、伊万里商人から資金の融通を仰がなければならなくなった事。第二には関所が廃止されたため、伊万里商人はもとより、有田の商人達は諸国に行商する自由を得たので、過当競争が激化したこと。そのため資力のある伊万里商人の買い叩きになって製品の粗悪化と窯焼の窮乏化の傾向を促進するに至った。そこで、この傾向を防止する目的を以て藩が郡令に命じたのである。
四、措置
伊万里商人による買い叩きを防止するため、一手仕入販売の流通商社機構を設立する。資金は皿山内外窯焼の出資による四千両と、藩からの貸付金一万両との合計一万四千両とする。 窯焼は仕入部の指図によって製造し、その製品はすべて商社倉庫に搬入する。これを評価員が格付け評価して金額を査定する。商社は査定金額の八十%を窯焼に支払う。
五、組織
製品の出入庫は一名の支配人が掌理し、これを若干名の元締役が補佐する。仕入部を中野原久富惣兵衛宅に置き、仕入役が窯焼に対し製造指図をする。出荷部は伊万里の有田町に本部を設け、中町と浜町とに支部を置く。浜町では専ら外山製品を取り扱う。江戸、横浜、長崎に夫々商社、即ち支店を設置した。阪神に商社を置かなかったのは、既に蔵元の下に指定問屋制が確立していたからである。
六、役員
監督 百武作十兼貞 郡令
(後世の社長と同様な役と思われる)
評価員 川原善八 大樽
評価員 深川栄左衛門 本寺平
評価員 久富惣兵衛 中野原
評価員 金ケ江利平 中野原
支配人 平林伊平 大樽
元締役 柳瀬平左衛門 大樽
元締役 手塚亀之助 大樽
元締役 針尾徳太郎 中野原
仕入役 藤井喜代作 大樽
仕入執務者 諸岡新太郎 泉山
伊万里本部 角源平 岩谷川内
伊万里中町 久富太八 中野原
伊万里中町 毛利常吉 中野原
伊万里浜町 柳瀬平左衛門 兼任
江戸商社主任 犬塚儀十 中野原
横浜商社主任 川原忠次郎 大樽
長崎商社主任 手塚五平 白川 七、伊万里商人への対策
当初伊万里商人にも商社から販売することで、彼等の既得権を認める方針を以て参加と出資を呼び掛けた。だが、彼等四十数名は結束してこの措置に反対して応じなかったので、郡令はその既得権を取り上げた。ために、営業不振に陥り一大恐慌を来たしたのであった。
八、消滅
明治四年八月、廃藩によって百武郡令は解任されたため、忽ちにして消滅した。
九、結語
佐賀藩が国とは異なるけれども、有田陶業の流通を組織統制することによって、変革による業界の混乱を防ぐと共に商業者の恣意(自分の思うまま)を規制して工業者の利益を計ったこと。又、当時有田の指導的立場にあった少数の有識実力者による格付け評価にて価格の公正を期したことなど高く評価されるべきであろう。同時に、当時の鍋島閑叟、百武作十や有田有志者達の先見性がうかがわれると思うのである。
明治二年の暮れ、グラバー商会の鉱山技師英人モリスに磁石砿を調査して貰うため、当時長崎の久富与平家に寄寓していた石丸虎五郎が本藩の久米邦武と共にモリスを伴って有田に来た。 そして、モリス歓迎の席上、百武郡令も交えて深川栄左衛門、深海墨之助と竹治兄弟、辻勝蔵等と製陶のことを話した時、英国で数年理化学を学んで来た石丸は、これら有田の製陶家等が理化学の初歩すら知らないのに驚くと同時に将来に不安を感じた。
彼は長崎に帰ると、与平にこの事を話して、たまたま今長崎に居るドイツの化学者ゴットフリート・ワグネルというのが、有田を見たいと言っているから、どうだろうかと相談した。与平が早速深海平左衛門へ連絡した結果、郡令の周旋で藩が雇用する事になり、明治三年春、ワグネルは有田に来た。そして、白川の御山方会所を宿として技術指導に当たった。
先に平左衛門は本窯で棕櫚色を発色させる技法を発明していたが、ワグネルはそれを学理的に説明した上、更に赤、黄、青を本窯で発色させる技術を伝授した。又、金の分解遊離などにも成功している。
そして、呉須に代わるものとして値段の安いコバルトに稀釈料として小樽山の地土四割を混ぜて完全に青化発色する事を教えた。又、白川稲荷神社の下の辺りに小型の二間続きの石炭窯を築造して試焼を続けたが、遂に成功しなかった。その内に藩との雇用契約が切れたので、ワグネルは職を求めて横浜へ去ったのである。その後も百武郡令は再び呼び戻そうと努力した。だが、藩は消滅したので、徒労に終ってしまった。その後ワグネルは、明治二十三年頃、白川で築いた平面式の窯でなく、立体的なもので石炭窯を他の地で成功させている。 石丸と同行して来た久米邦武は、その時平左衛門が極真焼きで焼き上げた六尺の大花瓶に驚嘆しているが、後日回顧録でこう述べている。「有田の陶工が斯く大胆で精巧な技術を具有するも是は只経験熟練の結果で、理化学の知識は零点で磁質に泡をなす空気さえ知らなかった」と。この一文からしても有田陶業の化学化にワグネルが如何に貢献したか分かると思うものである。
明治六年のウィーン万国博覧会にワグネルも参加して、有田から参加した川原忠次郎に石膏型の製法と用法などの技術習得に種々便宜を計ってくれている。
第七章 明治前半の有田
(一)久富与平のこと
幕末維新激動の時代に於て、有田を代表する日本的人物は久富与平と言える。江戸時代豪気で先見性のある商人は、前期では朱印船貿易で名を挙げた長崎の浜田弥兵衛であり、中期では紀伊の材木商紀国文左衛門、後期では加賀の回船問屋の銭屋五兵衛である。そして末期では三菱の創業者岩崎弥太郎さえ兄事したという吾が久富与平であろう。
与平は若くして有田を離れて長崎に住み、明治二年には長崎を出て海運業に専念している。有田焼の輸出という直接的な関連の他に、グラバーとの密接な交友やワグネルの有田行きの周旋など間接的に有田と関わりは持っているものの、前述したように幕末時有田焼貿易の実態が茫漠としているので、彼と有田陶業との具体的な関係は分からない。従って有田町史でも与平に関する記述は乏しい。よって彼の同族である久富二六氏著「わが家の歴史」から彼の軌跡を追ってみる。 久富与平昌起は字を子藻、号を西畝、通称は与八郎である。久富与次兵衛昌常の六男である。だが、長兄の昌保に子が無かったので、その養子となって久富宗家を継いでいる。
彼は年少の頃から闊達な性格で才知も衆に優れていた。いつも洋銃を肩にして西の岳に狩猟に行き、時には下僕を運れて山中に篭ることもあった。青年になると長崎に出て大村町の蔵春亭支店を支配して貿易の第一線に立った。屋号の蔵春亭は久富家が鍋島閑叟から拝受したものである。
この支店は佐賀藩が事務所として利用していたので、藩の留学生として長崎に来て蘭学や外国事情の研究をしていた副島種臣、江藤新平、大隈重信等がいつも出入りしていた。与平三十才の時、即ち文久元年(一八六八)には副島が三十四才、江藤二十八才、大隈二十四才である。
与平は小城藩十代の藩主鍋島直亮から特に寵愛されて与八郎の名を通称として与えられ家臣同様の扱いを受けた。そこで与平は藩公に勧めて大木丸という二百屯の汽船を購入させている。長崎で外人と通商すると共に、鍋島領の長崎港外高島で英人グラバーと謀って石炭の採掘を始めた。この事業には長崎の富豪永見家も応援した。
慶応元年(一八六五)頃、閑叟の密命によって藩士石丸虎五郎と馬渡八郎の両名をグラバーの帆船に乗せて英国へ密かに留学させている。二年後帰国して与平の家に寄寓していた石丸の提案によって独人ワグネルを有田へ行かせたのも与平である。
又、その間高島の石炭を大木丸に積み込み上海その他と交易したことは史料に残っている。 閑叟や小城藩主の知遇を受け、しかも長崎の藩事務所として自分の店まで提供した上グラバーとは親しくしていた彼が、有田焼の隠密な貿易と藩の武器輸入に大きな役割を果したことは十分想像出来るのである。
慶応元年頃には、与平の青年時代の学問の師であった谷口藍田が長崎に来て塾を開設して、アメリカ人のフルベッキーなどに和漢の学と日本語などを教授した。その傍ら高島炭鉱の経営等で与平の相談にも与かっている。又、与平は業の傍ら藍田に教えを請うたのであろう。
彼が初めて藍田に師事したのは、与平十八才の頃嘉永三年(一八五○)江戸の遊学から帰郷した藍田が有田で塾を開いた時である。後で彼の妻になるみんの実兄である大樽古酒場の川原善八と謙兄弟も共に藍田塾に入門している。
善八は彼より三才、謙(後横尾姓)は四才年下だった。
明治二年、与平は大木丸に藩士内山辰助と同船、長崎から既に首都となり江戸から改称した東京へ向かっている。この地で旧知の江藤新平等とも再会したに違いない。というのは、新政府の要職についていた江藤は与平を東京府知事にとしきりに勧めているからである。だが、彼はそれを固辞し、蝦夷地の名から改称したばかりの北海道へ向けて海運と貿易の業を開始している。
そして、明治三年の晩秋、与平等を乗せた大木丸は千島で台風にあって難破し氷の海を漂流したのである。寒気の厳しい海上にあること半年余、与平は船中で病に倒れて明治四年六月、釧路厚岸海岸の洋上で死去した。 与平四十才の時である。死に臨んで与平は「自分が死んだら死体は海中に投じてくれ」と供の者に命じた。供の者はそんなことはとてもと逡巡すると、彼は笑いながら「自分はこの航海で巨方の利益を得て五大州を廻るつもりだったのに、不幸にして病気に倒れたが、これも天命である。死後は長鯨に跨がって必ず初志を貫徹する」と言い息絶えたという。
昭和七年、与平の甥久富季九郎氏は私財を投じて、その墓碑長鯨の碑を報恩寺境内に建立した。台石は長鯨を形どり、碑文は師の谷口藍田の撰になる。題字は旧小城藩主鍋島直庸の書である。
(二)教育家としての谷口藍田
久富与平という非凡な人物は生まれながらの資質に恵まれていたにせよ、その人間形成に最も影響を与えたのは、彼が生涯の師として学んだ谷口藍田に他ならない。前節で述べた通り与平を追悼する長鯨の碑の碑文もこの藍田の撰による。又、明治初期深川八代の栄左衛門等と並んで有田皿山の最高指導者であった川原善八、その実弟にして明治後期、有田町長に任ぜられた横尾謙とは藍田の有田に於ける最高弟である。
この十月三十日には隣の山内町の人浦川晟氏が「儒者谷口藍田」という書を刊行しておられるので、この書に基づいて藍田の教育家としての生涯を回顧することにする。
藍田は文政五年(一八二二)八月十五日、陶山神社祭礼の日に有田郷外尾で生まれた。 彼の祖父に当たる三宅省蔭が寛政十二年(一八○○)医者として外尾に来住している。その次男寛平は叔父の佐賀藩士谷口家へ養子になり、皿山代官所に勤務することになったので、居を白川に移している。寛平の通称は源兵衛で陶渓と号した。そして、皿山会所の事務長である主薄の役にまで昇進している。号の陶渓は陶の里の谷川、即ち白川の意である。
藍田はその長男で通称は秋之助、字は大明である。有田の発音が「あいた」であることから、訓音が同じの藍田を号としたのである。又、祖先が朝鮮の役の時鍋島直茂に連行されて来た帰化韓人で韓を姓にしていたので、韓中秋とも称している。幼時は父母から教育された。だが、五才の時に孝経を読み、八才にして詩を作っている。十才の時には四書五経を読みこなして神童と称されていた。
十二才からは母の弟である叔父の儒医清水龍門が住吉村大野に開設していた塾に通っている。十八才の時英彦山の五蔵坊に学び、その後豊後日田の広瀬淡窓の咸宜園に学んで塾頭にまでなっている。
二十一才で江戸に出て羽倉簡堂のもとで学んだ。古賀伺庵、佐藤一斉、佐久間象山や伊東玄朴、鈴木春山などとも交友があったので、儒学や漢学ばかりでなく洋学も学んで内外の学問を身に付けている。
嘉永四年(一八五一)二十八才の時、郷里の有田に帰って白川に塾を開いた。だが、塾に来る者が多くなったので、上幸平の皿山会所の中に移った。現在の篠英陶器店の車庫の辺りである。更に隣村の宮野村に塾を移している。彼が日頃愛した黒髪山にちなんで、髟眞山書院と称した。髟眞は黒髪の意だからである。 塾生は武士もいたが、町人や農民も多数いた。有田には天保九年(一八三八)に草場佩川の教導所も設けられたが、私塾として本格的なのはこの書院が最初である。
その後、髟眞山書院は失火により焼失したので、藍田は宮野村を去っている。五島や天草などを遊歴して慶応元年(一八六五)京都の大徳寺でアメリカ人フルベッキーと会見し、その依頼で彼に和漢の学と日本語を教え、西洋の事情や学術についてフルベッキーから多くの事を学んでいる。又、これより先、藍田は長崎滞在中、門人の久富与平や森主一等と共に高島炭鉱開発に参画した。
慶応四年に子の復四郎と共に鹿島藩主鍋島直彬に会ったことが縁となって、明治二年には鹿島藩に迎えられて弘文館教授となり、あわせて権大参事として鹿島藩政に参画した。
明治四年(一八七一)の廃藩後の翌年には長崎の瓊林舘の館長に迎えられている。明治八年には、鹿島からの強い要請によって再び鹿島に移って、鹿島義塾を開設し多くの子弟の教育に当たっている。
明治十七年、子の復四郎が東京で死去したので、その整理のため上京し、その後は各地を遊歴して請われるとその地で講義をしている。同二十六年、熊本の師団長だった北白川宮能久親王に招聘されて熊本へ行き殿下に進講したが、宮が東京に転勤するとこれに従って北白川宮邸に入り、邸内に学問所を設け宮家一族の教育に従事した。明治二十八年(一八九五)能久親王が台湾で薨去されたので、翌年二月、宮邸を辞去して藍田書院を開き和漢学や道徳などを講義した。だが、明治三十四年十一月、脳溢血で倒れて逝去した。享年八十才であった。 彼は戊辰戦争が起こると王事に尽くすべしと志して、大隈重信や副島種臣等と京へ行き江戸を目指したが、途中病にかかり空しく帰郷している。この一事以外専ら彼はその生涯を地域住民や子弟の教育に捧げている。これが彼をして我が有田が生んだ偉大なる教育家とする理由である。
藍田は明治八年、鹿島に移住してから上京するまでの十七・八年の間、時々有田に帰郷して門下達と久し振りに会っている。年月は不明だが、たまたま鹿島から帰った藍田を高弟の川原善八が出来たばかりの大樽の料亭に招待した。その料亭は善八が因縁の深い田中庄右衛門というのに経営させて未だ屋号も決まっていなかったので、善八は師の藍田に命名を頼んだ。藍田は二階から故郷の町を眺めながら、松煙亭ではどうか。有田は松の煙を盛んに出すことで栄えてゆく。
それに松煙の音は主の庄右衛門の呼び名の「しょうえん」にも通ずるではないかと言ったという。
昭和十五年の頃、多久で私塾を開いていた田口裕次という東大出の人と会った。その時彼は自分の生地の塩田五丁田と有田とは深い因縁がある。 というのは明治の初め塩田や鹿島の人々を教化してくれたのは有田の谷口藍田であり、自分達の先祖は皆その徳を幕っていたと感慨深げに語ったのである。
(三)万国博覧会と有田焼
著名な経済史学者奈良本辰也はその著「近代陶磁器業の成立」で左の通り記述している。「明治維新の変革は我国陶磁器業の上にかかっていた一切の封建的制約を解いたぱかりか更に国外の市場への積極的な輸出を奨励するに至ったのである。
そこでかかるものとしての陶磁器生産の海外市場との連絡を考える時何よりも先づ明治六年の墺国博覧会を挙げなければならない。勿論これ以前にあっても各産地に於ては夫々神戸や横浜の外国商館よりする注文が引受けられていたことはいうまでもないが、我国の陶磁器の特色がそれを以て不動の地位を確立するに至ったのは明らかにこの墺国博覧会に於てであった。
明治元年から明治七年に至る陶磁器の輸出統計は墺国博覧会の意義を数字に於ても充分に説明されている。 明治六年に於ける一躍二倍半強の増加(明治五年四万五千円、六年十一万六千円)は、この博覧会に随行員として渡った東京起立工商社の松尾儀助の報告にも見らるる如く『大いに声価を会場に得て欧州人の之を望む者日に多くして我社莫大の注文を受けたり』という状態がもたらした結果の他ではなかったのである。」
このウィーン万博の恩恵を最も多く受けたのは我が有田焼であったといっても過言ではない。博覧会の総裁は時の工部卿(現在の通産大臣)大隈重信であり、現地での主宰者である全権公使兼副総裁は先年のパリ万博で佐賀藩の団長だった工部大丞(現在の通産次官)佐野常民であった。
それに販売担当者は前記の松尾儀助である。
彼は先年のパリ万博で佐賀藩の販売担当者で彼の地で客死した野中元右衛門の子飼いの者で、大隈の信任が厚かった政商である。更に一行の中にはワグネルがいた。有田からは伊万里商社の横浜主任だった川原忠次郎が小城の納富介次郎と京都の丹山陸郎と共に陶芸研究員として参加している。この顔触れからしても有田焼にとってどんなに有利であったかということが分かるのである。
有田焼の出品についてはその前年、田代慶右衛門と平林伊平が御用違に任ぜられて上京し博覧会事務局から詳細説明を受けている。この二人が選ばれたのは、田代は既に幕末から、平林はこの年から横浜に支店を開設している関係からと思われる。
そして、製作監督として事務局出仕の納富介次郎が有田に出張して来ている。 こうして明治五年の有田内外皿山は博覧会出品物の製造に忙殺されて、その年の暮れから新春にかけて荷になり続々と横浜へ送られた。
佐野以下一行七十余名は出品物を搭載した英船マラッカ号に便乗して横浜を出発したのは明治六年二月二十五日だった。そして、四月十四日オーストリアの首都ウィーンに到着した。博覧会は五月一日に始まって十一月末に盛況裡に開会した。
名誉の大賞を授与された有田焼は非常に好評で、特に欧州人の目を驚かせたのは大物類であった。白川の家永熊吉製の六尺余(二メートル)の大花瓶と五尺(一・七メートル)の立壷、岩谷川内の山口虎三郎製の五尺の大花瓶、黒牟田山の梶原友太郎製の三尺の火皿などである。
又、深川栄左衛門が出品した薄手の三河内素地に六歌仙を赤絵付した紅茶碗が飛ぶように売れた。三河内素地を使ったとして田代屋や赤絵屋達が藩法によって厳しく罰せられた七年前の事件を思えば隔世の感である。
博覧会閉会後、川原忠次郎は納富や丹山等と共に欧州陶磁器の製造技術の伝習を命じられた。彼等はワグネルの協力を得て一ケ月間このことに費やしている。
川原等が先ず驚いたのは、機械ろくろの素晴らしい性能であり、それに石膏型による流し込みの成形法であった。次に匣鉢の合理的な形状と積み方である。有田では一個づつ蓋をしたり或は冠せ積みをしていたが、ここでは積み重ねである。従って窯の空間を少なくした上、製品の汚染を防止しているのにはひどく感銘した。 その他上絵付の油のばしの方法などいろんな新技術を習得して、川原と納富は共に翌七年二月帰朝した。
ちなみに、京都の丹山陸郎も初めて水金を携えて同じ頃帰国している。そして、川原はこれらの新技術を以て窯焼や赤絵屋を実地で指導したのである。
明治前期でのその後の万国博覧会は左の通りである。
明治九年(一八七六)フィラデルフィア
この万博はその前年日本で最初の合本組織の会社として発足した香蘭社に所属する深川、深海、辻の工場が総力を挙げて自費で参加出品している。
同社の手塚亀之助、深海墨之助、深川卯三郎(八代の女婿)が渡米して米国市場への本格的進出のスタートを切った。その時米国に於ける受入れを目的とする松尾儀助の起立工商社ニューヨーク支店が開設された。ここでも名誉大賞を授与されて、一行は翌十年帰国した。深川は米国から大量のコバルトを購入して帰ったので、呉須からの転換が一般化するのである。この万博への日本の参加は有田の陶業者の政府に対する熱心な運動によって実現したが、これからは政府買上げでなく業者の自費出品になったのである。
明治十一年(一八七八)パリ
香蘭社社長深川栄左衛門が渡航し、一等金牌を獲得している。深川は閉会後欧州の製陶地を視察、製陶機械を購入して帰った。 だか、その直後会社が分裂したため、機械の活用は出来なく、それから数年後に合名会社香蘭社で使用されている。
明治十六年(一八八三)アムステルダム
主に精磁会社が出品して同社から川原忠次郎が参加した。当時ヨーロッパは深刻な不況下にあったため、博覧会の成績は極めて悪く予想外だった。だが、一等金牌は獲得できた。閉会後、川原はフランスのリモージュを訪れて当時の世界で最も進んでいた窯業機械一式を契約している。
これら数回の万博への参加によって、欧米市場を確保すると共に進んだ技術と機械とを導入することが出来て有田陶業の近代化を促進したことは実に劃期的なことであったといえよう。
(四)香蘭社と精磁会社
岩倉具視を全権大使とする遣米欧使節団の一人である久米邦武は明治七年の春有田を訪れて、明後年はアメリカ独立百年目を記念してフィラデルフィアで万国博覧会が盛大に開催されるから、有田も是非参加するように勧めたので、有田を代表して深川栄左衛門と手塚亀之助が博覧会出品手続きのため上京した。
久米の紹介で両名は内務省勧業寮に出頭した処、その頃政府では西郷従道を総督とする征台の議が決してその準備に忙殺されているから、博覧会などに関わり合ってはおられぬと断わられた。そこで政府に対し速やかに米国博覧会に参加するよう決しられよと建白して帰有したのである。 その後急に情勢が変化して征台が中止になったためか、或は有田の建白も与かって力になったのか、従前のような政府買上げはしないが、自費出品であれば斡旋の労を執ると勧業寮の方針が変わった。そこで有田では深川、深海、辻は自家製品を、手塚は仕入商品を自費で出品参加することに決まった。
その間、この四者は久米からいろいろ啓発されることが多かった。特に最近欧米の産業が急速に発達した原動力はカンパニア、即ち会社組織である。毛利元就の故事にある、一本の矢は折れるが三本に束ねると折れないという原理だと説かれて一様に目の覚める思いがした。そして、生まれたのが合本組織香蘭社である。
この商号と蘭の銘については藍田の高弟で、皿山一の知識人である川原善八が彼等の請いによって名付けたのである。即ち、君子の交わりはその香蘭の室の如しという中国の古典から取って香蘭とすれば、西洋では白磁をカオランというから磁器の会社であることが明らかである。又、蘭の花を丸く描けば雅味のある銘になる。そこで蘭の香りという社名は有田を代表する結社の名として最もふさわしいと川原は説明している。
二月末には正式に設立認可方を県に申請した。だが、佐賀県としては何分初めてのことなので、県令は時の内務卿大久保利通へ裁断を仰いだのである。日頃結社営業を勧奨していた大久保は我が意を得たりと即座に許可した。明治八年四月のことである。 君子の交わりを結んだのは、深川栄左衛門、手塚亀之助、深海墨之助と竹治の兄弟、辻勝蔵の五名である。支配人(現在の社長)に深川、勘定方(現在の専務)に手塚、社員(現在の取締役)に深海兄弟と辻が任じている。
深川栄左衛門は旧藩時代には窯焼の傍ら釉薬の原料である柞灰の藩による専売権を川原と共有して財を成し、明治元年には貿易鑑札を取得している。明治三年には電信寮頭になった旧知の石丸安世(前名虎五郎)の依頼で本邦最初の電信用碍子を製造すると共に白川窯登支配になっている。正に有田第一の実力者だった。
手塚亀之助は大樽の陶器商で主として京阪地方を市場とし、明治二年には百武郡令に協力して藩の大阪蔵元制度を改革している。
伊万里商社でも元締役を務めた有力者である。
辻勝蔵は深川の妻の弟で二代喜右衛門以来禁裏御用達の名門でその曾祖父八代喜平次は極真焼で有田焼の声価を高めている。
深海墨之助、竹治は宗伝嫡流の平左衛門の子で、ワグネルに師事して父以来の悲願である本窯で色絵を発色させることに成功した。弟の竹治は当時最も優れた技術者であって、明治十三年には理想的な匣鉢製作に成功し、十四年には従来の柞灰釉に代わる石灰釉を完成している。
会社としての最初の挑戦だったフィラデルフィア万博は、その製品がフランスのセーブルその他各国の製品を完全に圧倒して対米輸出の道が開かれたのである。そして、深海製と辻製とが金牌賞状を獲得した。 閉会後、手塚等は起立工商社々長松尾儀助と話し合った結果、松尾はニューヨークに支店を開設して香蘭社製品の対米一手販売に当たることになった。これより先、当時大隈がその長だった大蔵省から四十万円という巨額の資金を拝借していたのである。
同じ会社であっても深海製や辻製とかになっているのは、完全合併でなく、工場は夫々で運営し、製品には一様に蘭花の銘を入れるが、その下に夫々の姓を記すことになっていた。そして、販売は全て会社を経由する。だが、その代わりに焼成上の損失は会社が負担するという仕組みになっていたのである。
香蘭社の一行三名は一年ぶりに十年四月、有田に帰った。その前々月、大久保内務卿から香蘭社へ「名誉の章」という賞状が贈られている。これには深川以下五名の社員の氏名が列記されて「右名工ヲ証シテ之ヲ授与ス」とある。
製磁の職人的な技能よりも管理者的な深川や全くの商人である手塚までを含めて一律に名工と称したことで当時の時代感覚が窺われるようである。
創立四年目にして遂に合本組織香蘭社は分裂したのである。明治十一年のパリ万博には社を挙げて参加した。碍子を新しく出品することになったので、社長格の深川が渡航している。その不在中資金繰りに追われて、政府から五千円という大金を輸出向け製品の試売前金の名目で下附された。その時内務省勧商局は完全合併することによって、会社の性格を明確にすべしと勧告した。
これは手塚等の持論でもあったので、製造工場を集中するという完全合併の社則原案を作成して政府要路の了解も取りつけ、深川の帰朝を待ったのである。 だが、明治十二年一月に帰朝した深川は、完全合併は時期尚早であり、藩政時代から根付いている米穀拝借的な他力依存の考え方は不可であるとの彼の信念から政府要路の強要も有田有志等の調整をも斥け自説を枉げなかった。
こうして香蘭社は深川の一手経営になり、他の四人は離脱して別に精磁会社を設立する。この会社には久米等の懇請によって当時東京で江戸川製陶所の経営に参画していた川原忠次郎が新たに参加することになった。そして、久米、松尾それに泉山の素封家百田恒右衛門が差金社員(現在の株主)として協力することになり、辻の工場に深海の工場を移して完全合併の会社として発足したのである。明治十二年二月のことである。
そして、起立工商社とは改めて約定を取り交し、対米輸出品の製造に専念することになった。又、アメリカボストンの陶磁器輸入業者フレンチを有田に招聘して直接指導を受けた。明治十六年アムステルダム万博に川原忠次郎が参加し、閉会後、フレンチの勧告に従いフランスのリモージュに廻って、最新鋭の製陶機械一式の購入契約を結んで帰国した。
当時欧米は深刻な不況のため、万博の成績は芳しくなく精磁会社の経営は容易でなかった。そこで契約はしたものの機械を購入する資金は無いので、政府からその代価八千円を無利息七年々賦で借り入れたのである。
辻の工場に隣接する三千坪の地に新工場を建設して、明治二十年七月一日、落成式を迎えた。 日本で最初の最新鋭を誇る製陶工場ということで農商務省技師、佐賀県知事初め全国各地の陶磁器関係の官民多数が出席した。ということは、この工場こそ当時陶業近代化のシンボルであったからである。
しかし、その前年には深海墨之助、翌年には川原忠次郎が相次いで病死した。そして、二年後には辻勝蔵が離脱するなどして、この栄光も長くは続かなかった。反面深川の一手経営になった香蘭社はその後合名会社に改組されて今日に至っている。百年余を経過した今にして、八代深川栄左衛門の非凡なる先見性を認識せざるを得ない思いがするのである。
第九章 明治後期の有田
(一)窯焼工業合成立の前後
窯焼工業会は、明治十九年(一八八六)陶磁器工業組合の先駆的な組織として設立された。正しく言えば有田窯焼磁業会が組織を拡大、改称したものである。そして、その発祥は明治六年の陶業盟約に遡るのである。
廃藩置県後の新しい時代に有田の陶業を対応させるため、当時の有志百田多兵衛、川原善八、深川栄左衛門、深海墨之助、手塚亀之助、平林伊平に有田小学校長江越礼太等が協議して町是として、二部から成る陶業盟約を制定した。そして、これは工商会議を開いて陶業の改良発達を目的としているものである。
明治九年三月、陶業盟約定則を改めて範囲を有田内外山とし、十七名の内外山惣代が連署して佐賀県令北島秀朝に届け出ている。 その時の窯焼数は二百七名で山列は左の通りである。
泉山 二十四
上幸平 二十四
中樽 十七
大樽 二十二
本幸平 九
白川 九
稗古場 十四
赤絵町 一
中野原 ○
岩谷川内 九
内山合計 百二十九
外尾山 九
黒牟田山 十二
応法山 十
南川原山 四
広瀬山 十六
大川内山 十二
一ノ瀬山 十五
外山合計 七十八
この窯焼等が利用した登窯は二十一あった。内山は十二で一窯平均十・七五人であり、外山は九で一窯平均八・六七人である。登窯には各一名の登支配がいて管理に当たった。
石場には頭取一名の下に肝煎十三名がいた。定則上の部十八ケ条は石場に関する諸規定で、下の部十一ケ条は登窯に関する諸規定である。
そして、明治十一年、郡区の改正によって惣代が廃止されたので、陶業盟約の執行者として新たに町用係という職を置いて本幸平の田代呈一が任ぜられた。その手当は有田皿山が負担した。 だが、十四年に自治制が実施されたので、陶業盟約中の行政に間する条項は町村に移り陶業に関することだけに縮小された。
そこで盟約加盟の窯焼を以て有田窯焼磁業会が結成され、会長には田代が任ぜられたのである。
当時の陶業界は、明治十三年までは好景気が続いた。だが、十四年から不景気に逆転して職工の賃金も平均二十五%も切り下げられた。このように経営難に陥った窯焼は製造工程を省くため、素焼を止めて生積みの方法をとったので、品質の低下は免れなかった。この傾向を防止するため、磁業会は規則によって特殊品以外の生積みを一切禁止したのである。
そして、明治十九年に磁業会を改組したのが窯焼工業会である。引き続き田代呈一が会長になって粗製乱造を取り締まった。
同時に黒牟田山に支会を設けた。又、内外山の赤絵屋から議員を選出して加入させた。但し、赤絵屋との協同は職工雇入などに限定された。この時会長の田代は四十才の熟年であった。
事務所は勉脩学舎内に置かれた。勉脩学舎は、明治十四年(一八八一)有田小学校長江越礼太が多年の素志を貫徹したもので、深川栄左衛門の千円を始めとし内外山有志の寄付金一万三千五百余円を以て白川の小学校の下場に一大校舎として新築された。その名称は有栖川宮より賜った大額の御親筆による。我が国陶業界に於ける実業教育の濫觴(ものの始まり)であって現在の有田工業高校の前身である。
廃藩によって藩の統制が解かれたので、新しい窯焼や赤絵屋が続出した。 又、窯焼で資力の有る者は共同窯から離脱して自分の工場の中に登窯を築く傾向が生じてきた。
明治六年には平林伊平が製作した碍子が電信寮の試験に合格して明治十三年まで香蘭社と並んでその製造に当たった。彼は明治四年、散髪脱刀令が発令されると直ちに髷を切り落として洋食器製造の研究に掛かっている。その翌年には横浜に支店を開設したという程の有田に於ける文明開化の先駆者だった。
明治十三年には佐賀の山口弘助が白川で金粉販売業を始めた。これが有田金屋の元祖でその後大樽、本幸平、赤絵町に金屋が生まれている。
明治十七年、黒牟田山の窯焼梶原幸七が一軒窯を築造して初めて石炭を試用している。
明治十九年、大樽の牟田久次は紙型印画法を銅版転写に発展させて染付銅版を普及させている。明治二十年頃には深刻な不況を切り抜けるため、窯焼同士又は、赤絵屋同士で社や組と称する企業合同が流行した。だが、これは長くは続かなかった。昭和までその名称が残っていたのは、大樽の岩尾と藤井との合同による岩井組や岩谷川内の雪竹を中心とした改幸組などに過ぎない。 明治二十一年、ワグネルの窯業機械化の所説に共鳴した田代呈一は泉山の徳見知敬と共に稗古場に有田起産会社という製土工場を創立し、クラッシャーを据え付けて磁石の粉砕から粘土搾成までの業を始めている。
その頃平林と田代とを相手にした山林事件が起こっている。というのは、明治二十年頃平林が燃料の薪材の払い下げを受け、田代がその管理をしていた。だが、両人は結託して不正をしていると一部町民と赤絵屋が訴訟を起こした紛議である。
(二)県都の変遷と町村制の施行
明治四年七月の廃藩後、各藩の区域はそのままで名称が県に変わったに過ぎなかった。だが、その年の十一月にはそれが一つに統合されて伊万里県になり、県庁も伊万里に置かれた。最初の権県令(後の知事)は後で明治天皇の侍従になる旧幕臣の山岡鉄舟である。僅か半年目の五年五月には旧多久領主の多久茂族に代わった。
多久は伊万里県を佐賀県に改めて県庁を佐賀に移したのである。だが、これも四年目の明治九年五月には長崎県に編入されている。そして、東西松浦が含まれていた第五大区は第三十六大区に名称が変わったが、その中の有田郷全体の十二小区はそのままであった。
郡区町村制が実施される直前の明治十一年五月現在の十二小区は左の通りである。 有田皿山 一三四八戸 五六六二人
新村 七八三戸 三三五八人
曲川村 六一七戸 二五九八人
大木村 四五七戸 一八九三人
山谷村 三二九戸 一四四三人
(後大木と山谷は合併して大山村になる)
中里村 三四一戸 一五三七人
大里村 三四○戸 一五四六人
(後中里と大里は合併して二里村になる)
合計 四二一五戸 一八○三七人
そして、大区副区長菊地山海郎の下に十二小区戸長は牛津出身の徳見知愛であり、これを四名の副戸長が補佐している。又、五十戸一人の割合で五十一人の惣代が選出されて後の区長や議員のような役を務めている。
明治十七年七月には大区小区制が廃されて郡制になり西松浦郡が生まれた。
十二小区の町村はこれに編入されたのである。初代の郡長は永田輝明であり、郡役所は伊万里に置かれた。そして、有田皿山の戸長には渡辺源之助と中村勘蔵、新村の戸長には松村定次が就任している。戸長制が廃止された明治二十二年の戸長は、有田皿山は渡辺源之助、新村は田代健である。
明治十二年には「長崎県町村会規則」が定められて翌年早々には、有田皿山では町会、新村では村会が開かれている。当時の資料には議員の名前はなく、ただ有田皿山町会議長は深川栄左衛門とある。戸長の下で歳入歳出などを議していたのであろう。
明治十六年五月には現在の佐賀県が長崎県から分離独立した。そして、明治二十一年に市町村制が公布された。翌二十二年四月、有田皿山は有田町と改称して町長平林伊平。助役田代健(前新村戸長)収入役田代呈一。 新村は村長松村定次、助役勝屋玄九郎である。
町村会議員の選挙は四月に行われて有田町十八名。新村十二名の議員が生まれた。選挙法によって男子二十五才以上で地租又は直接国税二円以上の納税者には選挙権および被選挙権があった。五円以上の納税者から選ばれた者が一級議員で、二円以上五円未満の者から選ばれたのが二級議員である。一・二級は同数であった。但し、一級議員の資格はあっても二級から立候補することが出来た。
有田町で二級で当選した渡辺源之助は、十年の長期間戸長を勤めた酒造家である。又、松本庄之助は、その前年洪益会社という銀行類似会社を設立しその経営者であった。共に一級議員の資格はあった。だが、当時盛り上がり始めた町民運動のリーダーとしての建前から敢て二級議員として立候補したのである。
(三)銀行次々に生まれる
明治の初めまでの金融業といえば質屋であった。だが、明治九年の国立銀行条例によって株式会社組織の国立銀行が各地に続々と設立された。明治十三年には一五三行になって政府規定の限度に達したので、それからは私立銀行又は、銀行類似会社が全国各地に雨後の筍のように生まれたのである。
明治十二年にパリから帰朝した深川栄左衛門は、欧州に於ける金融資本、即ち銀行の効用を認識していたので、国内のこの動向に対応し陶業金融のための銀行設立の必要を唱えた。これに伊万里の有志石丸源左衛門(初代伊万里町長)松尾貞吉(伊万里一の豪商)等が賛同した。 そこでこの三名が上京し運動した結果、鍋島本家を始めとして小城鍋島家及び大隈重信等が賛同して大株主になった。
そして、明治十五年、資本金三十七万円の伊万里銀行が伊万里町相生橋脇に設立され、旧佐賀藩士の下村忠清が頭取になった。十七年には唐津に出張所、十九年には横浜に支店を設置した。だが、財界恐慌に逢着して一時は経営難に陥った。しかし、旧小城藩士の蓑田助之允が頭取に代わってから減資などの適切な整理で立ち直ったのである。
明治二十年の佐賀県の銀行は左の通り
国立銀行 佐賀 第百六銀行 資本金三十万円
国立銀行 小城 第九十七銀行 資本金五万円
私立銀行 伊万里 伊万里銀行 資本金三十二万円
私立銀行 佐賀 栄銀行 資本金十一万円
私立銀行 佐賀 三省銀行 資本金五万円
私立銀行 佐賀 古賀銀行 資本金五万円
私立銀行 鹿島 鹿島銀行 資本金十万円
私立銀行 塩田 志保田銀行 資本金六万円
私立銀行 唐津 唐津銀行 資本金三万円
伊万里銀行は佐賀県第一で全国でも屈指の大資本の銀行であった。当初の取締役は前記の三名で、有田からは九千五百円の株主として松本庄之助がいた。
伊万里銀行が生まれた明治十五年、深川栄左衛門が、有田の金融を伊万里銀行だけに依存していては不便だとして泉山に創立したのが銀行類似会社の有田貯蔵会社である。主として窯焼への金融を目的として、百田恒右衛門、藤井恵七、同喜代作、川崎精一等が参画した。後で本幸平の横町に移って、前の戸長中村勘蔵が主任になっている。
明治二十一年七月には、四月に創立した洪益会社に対抗するため、貯蔵会社を銀行に改組して有田貯蔵銀行を設立した。 前記の人の他に田代与一、同呈一、犬塚儀十、手塚政蔵に伊万里の松尾良吉、新村の前田儀右衛門等が発起人となった。資本金は五万円とし、現在の佐賀銀行有田支店の地に移転した。頭取は深川栄左衛門で、後有田銀行と改称した。
明治二十一年四月、有田の商人や庶民のための金融機関として、赤絵町に資本金二万円を以て銀行類似の洪益株式会社が創立された。発起人は松本庄之助、蒲地兵右衛門、嬉野為助等で、松本が専務として経営に当たった。後で改組して株式会社洪益銀行と称した。
明治二十五年三月、新村外尾宿(現在の本町)に資本金二万円の協立銀行が創立された。頭取は前田儀右衛門で専務として黒牟田の益田権平、次いで桑古場の正司久和一が任じている。昭和四年二月には有田銀行に合併した。 こうして明治中期に有田の金融機関は夫々の特色を持ったこの三行によって整備されたのである。昭和十四年には、この伊万里銀行、有田銀行、洪益銀行に武雄の武雄銀行の四行が合併して佐賀興業銀行になった。現在の佐賀銀行の前身である。
(四)石場騒動(上)
町政施行前後、有田皿山の物情は騒然としていた。それは、町議会が開かれる前から町民達は一戸当たり年二円六十銭に高騰した町費の減額を叫んで集会を開き、代表を選んで減税運動を起こしていたからである。この運動に対して千二百戸の町民の九割近くが賛成した。そこで町民運動の指導者達は賛成者の署名を集め減額要求の理由を書いた建白書を町議会へ提出したのである。
初の町議会で平林町長は、町民のこの要望に応えるには、財源となる町の基本財産の確立以外に方途はないとして、議員からの答申を求めたのである。これに早速応えて、渡辺源之助、松本庄之助、正司碩譲の三議員が連名して提案したのが「磁石場を有田町有として基本財産にする件」であった。 この磁石場は渡辺源之助が戸長だった明治十三年八月から官有地でなく有田皿山共有地になり、二十二年からは内外窯焼の借区になっていた。今度の町村制施行によって有田皿山が有田町に改称された機会に、これを正式に町有財産とすれば、磁石代収入の一部を以て町民負担は軽減されるというのが提案理由であった。
これに真っ向から反対したのは、窯焼である平林町長と窯焼工業会長にして議員で収入役の田代呈一だった。勿論窯焼の議員は南里平一を除いてこれに同調した。その反対理由の第一は現に窯焼が正式に借区して管理していること。第二には石場が藩から下げ渡された時に運上銀(税金)は窯焼が上納していること。よって石場の所有権は有田内山の窯焼にあると言うのであった。
だが、この論には三つの弱点があった。その一は借区して税金を払っていることは、借家して家賃を払っていることと同様で、その権利は所有権ではなく借区権であること。その二は外山窯焼には権利がなく内山窯焼に限るとしたこと。第三には内山窯焼の集団は窯焼工業会の一部ではあるが、工業会は公法人でないこと。即ち、その所有権は共有であるから分割されて流動的であることであった。
議決の結果は提案者三名を新しいリーダーとする町民派の勝利となって窯焼派は敗れた。一万五千坪の磁石場は有田町有としてその基本財産になり町長が管理することになった。但し、予算編成に当たる委員十名はすべて窯焼から選ばれると町有規約に明記された。 議決の直後、平林町長と田代収入役は辞任し、町長には助役の田代健が昇格して助役には窯焼で町民派に同調した議員の南里平一が就任した。そして、石場管理について町長を専ら補佐する名誉職を設けて久富三保助を起用した。彼は久富与平の後嗣であるが、東京法学校を卒業したばかりの青年だった。
そして、この新しい執行部は直ちに町役場を窯焼工業会の所在する勉脩学舎の中に移転した。これは町有規約に基づいて窯焼工業会を工業会議所として町が完全に掌握する為の処置だった。
有田町の石場町有議決と町役場移転に衝撃を受けたのは、新村と曲川村の窯焼だった。
柿右衛門他九名の代表は有田町に対して、外山の窯焼達もその建設費に相応の寄付をしているにも拘らず、それには一言の挨拶もなく勉脩学舎に町役場を移転した事に強く抗議した。だが、田代町長は創始者の江越先生から学舎の運営については一切有田町に委任されているとして応じなかった。
その数日後、新村村長松村定次が町有議決の取消し要求に起ち上がったのである。その根拠は、明治四年の廃藩置県に際し藩が石場を下げ渡した時の達文の宛名にあった。宛名は歴然と内外皿山となっている。従って石場は有田町だけに所有権があるのではない。又、内山窯焼のものでなく、内外窯焼の共有物でもない。石場は有田町と新村、曲川村、大山村、大川内村の法人格を持つ一町四ケ村こそが共同所有者であると主張したのである。 又、有田町が、窯焼達の石場に支払う賦課金である筈代を町の収入にしようとしていることは理不尽である。一度は町民派に屈したもののこの事では内山窯焼も外山窯焼と利害は共通するから、町有議決の取消しに内山窯焼が同調するよう工作しなければならないと、窯焼達に指示した。又、曲川、大山の村長に対しても共同戦線を積極的に呼び掛けた。
この新村村長松村定次は大庄屋の次男である。明治六年、新村の住民が飢餓寸前の状態にまで陥った時、三十才前の若年ながら単身県庁へ乗り込んで県米三百五十俵を緊急に購入して住民の困難を救ったというだけあって、彼のこの事件に対する処置は極めて適切で、その作戦は寔に巧妙であった。
当初は有田町だけの事件だったのが、こうして二里村を除いた全有田郷と伊万里郷大川内の内外山一町四ケ村を巻き込む一大紛争に発展したのであった。そして、遂に西松浦郡長がその調停に乗り出さざるをえない事態にまでなったのである。
松村定次の指示に従って外山窯焼代表は有田町に対して石場を有田町専有としたことは、明治四年、藩が内外皿山へ下げ渡した歴史的事実を無視した不法行為であるから、即時白紙還元せよと抗議した。だが、有田町長は土地台帳に有田町共有地と明記されており、石場の地租年十五円も町が納入しているから、当然であるとして一蹴した。 そこで六月には、新村、曲川村、大山村の窯焼代表は連名して、先に有田町へ抗議した趣旨の通りの長文の訴願を西松浦郡長荒木卓爾に提出したのである。
事態を憂慮した郡長は、この訴願は一応関係三村長に預けて現地に出張した。そして、泊り掛けで精力的に和解工作を試みた。だが、その緒さえ掴むことは出来なかった。それに大川内村の窯焼達も三村に合流しようと動きだした。又、町有規約には不満を持つものの内山窯焼は松村の主張には同調しなかったので、郡長は工作を断念せざるを得なかったのである。
(五)石場騒動(中)
その頃有田では、石場の出納事務を町が工業会から取り上げたことから、筈代の取扱いについて田代町長と工業会長の田代議員との争いにまで発展した。又、内山窯焼の考え方が窯焼としての連帯感から、石場は内外総窯焼の共有だと変化して来た。そして、八月、内山窯焼の総集会となって、石場筈代収支の取り扱いは即時工業会に復すると同時に先の町会議決は取り消すべしと決議するに至ったのである。
この挑戦に対して町民派は、この決議は必ずしも窯焼の総意ではないと判断したので、中以下の窯焼を夫々の縁故によって説得して町有規約を厳守するという盟約書に記名捺印させた。そして、その数は内山窯焼七十名の過半を越える三十六名に達したのである。次に工業会が保管している石場の関係書類や帳簿を全部町で接収すると同時に筈代はすべて町の収入にするという強行手段をとった。 この事を伝え聞いた数百人の町民は役場に群衆して盛んに気勢を上げた。秋祭の前日のことであった。
事態の急変に驚いた外山四ケ村の村長は石場の運営は内外窯焼よりなる工業会が取扱うべしという意見書を携えて有田町長を訪れた。有田町は町長、助役、久富補佐人、渡辺と松本の両議員が応対した。町民達は役場の広庭に火を焚いて成り行きを注視した。だが、会談は延々十時間に及んだものの結論は出なかった。そこで、外山の四村長は連署して、土地台帳記名誤謬の訂正を願う文書を佐賀県知事樺山資雄へ提出したのである。
これに呼応するかのように十二月、内山窯焼派は平林伊平以下十七名の連署を以て「石場云々に付き内外皿山工業家関係の事実意見書」を知事宛に提出している。
それによれば石場は明治四年の廃藩置県によって内外皿山へ下げ渡された。明治八年には内外窯焼は陶業盟約を結んだ。その関係は鳥の両翼のようなものである。しかるに有田町会は外山を斥けて議決した。そして、窯焼からの筈代金を町費等に消費しようとする事には窯焼は同意出来ないという趣旨である。しかし、皮肉にもそれを議決した町会の議長だった平林伊平が筆頭に名を出しているのである。
遂に県にまで及んで来た事態を憂慮した知事は二月下旬、西松浦郡長と一町四ケ村の長とを県庁に招集して、これから県が調停に当たるから、何れも帰任して調和策を講ずるようにと申し渡したのである。
そして、三月初め、勧業課長や県会常置委員等六名を有田に出張させて、有田町役場に五町村長と内外山窯焼の代表及び町民派の代表を個別によんで和解を試みた。 県が提示したのは、甲案として内外山窯焼の共有とし、その収入の何%かを町へ提供する事。乙案は一町四ケ村の共有とし、その管理運営は窯焼工業会に委任する事だった。この事を知った町民は続々と法元寺に集合して反対の気勢を上げたので、この日は空しく彼等は帰庁せざるを得なかったのである。
五月二日、遂に知事は地券面の有田皿山共有の取消しを通達したのである。そして、関係人民協議の上、地主を申し出よとあった。窯焼は願いか容れられたとして早速地主出願の準備に着手した。だが、この達に反対する町民は大変激昂して窯焼の出願は阻止しなければならぬとして十一日夜、西光寺に三百人の町民が集合した。そして、窯焼のリーダーである深川栄左衛門と田代呈一の邸へ押し掛けようとした。その報に接した有田分署は伊万里署から警部以下八名の応援を求めた。
一方知事のこの達によって外山四ケ村と内山窯焼派との共通の主張は通ったとして、総窯焼を地主として出願することに一致したので、両派の代表は窯焼集会所に集まった。そして、大川内村代表の県議川原茂輔が起草した願書に調印しようとした時、西光寺から町民達が群れをなして押し掛けあわや乱闘になろうとしたので、両派は一時事を中止せざるを得なかったのである。
その後両派は秘に総窯焼を地主とする願書を代表が携行県へ出願しようとした。しかし、県側は、今町民が激昂して暴動寸前という不穏な状況だから、地主の事はしばらく棚上げして、採掘権だけ申請したらどうか、それさえあれば窯焼の営業には支障はないだろうと両派を説得した。そこで改めて窯焼から採掘願いを出す事にして辞去したのである。 その頃、この通達に激しい衝撃を受けた町民派はこのような達を出した知事を行政裁判所に訴える事にした。そして、久富が上京して訴訟を起こしたのである。一方、窯焼派は採掘願いの取纏めに躍起となった。特に町民派に同調して盟約を結んだ三十六名の窯焼に対しては、盟約破棄の意思を表明しなければ採掘願いの連名には加えない。そういうことになれば石場の石は一片も使えなくなると脅しをかけた。そのため、この三十六名は盟約取消し書を町へ提出せざるを得なかった。そして、内外総窯焼連名の磁石採掘願いが県に出された。六月二十二日のことである。
しかし、窯焼のこの動きに対して町民派の代表は事前に県に出頭して左のような警告をしていたのである。若し県が有田町民大多数の意思を無視して窯焼の採掘権を許可されると全町民の世論が沸騰して大紛擾を招き流血の惨事を見るは必至である。
それでも敢えて県が強行されるならば、その責任は一切県にあって有田町は関知し得ないと。
この警告が効を奏したのか、県は六月三十日に採掘願いを却下した。そして、西松浦郡役所を通じて地主確定まで当分の間は陶業盟約の規定に従うようにと関係町村へ達した。
しかし、この達は逆効果をもたらした。即ち、窯焼派は、陶業盟約は我々の規約だから、これは石場の所有権は窯焼にあると認めたものだと解釈して、石場の関係書類を返せと町長に申し込んだのである。それに激昂した数千の町民は西光寺と報恩寺とに集まって早鉦早太鼓を鳴らして窯焼集会所のある陶山神社へと押し掛けた。だが、この騒ぎは伊万里警察署から署長以下が急遽出動して鎮撫したのである。 そして、県からは保安課長等数名と郡からは書記が駆け付けて来て、内外窯焼、町会議員、石場委員、人民総代等を夫々呼び寄せて説諭した結果、七月十日に県郡の役人と五町村長を立会い人として陶業盟約の疑義解釈について意見調整の会談を桂雲寺で開くことになった。列席者は内外窯焼と有田町の議員区長とに限定し、傍聴人も双方五十人に制限したのである。
三日間に亙る会談は町民派の譲歩によって両派間の調整が成ったのである。町民派が譲歩した理由は、この会談中に先に知事を行政裁判所に訴えていた町民派の訴状が却下されたからである。
この調整の結果、盟約による現行頭取制を廃し、関係五町村長から成る複数頭取にして、これに内外窯焼が石場管理を委託すること。及び窯焼の輪番制を廃止する。その他は現状通りとして変改しないということであった。
(六)石場騒動(下)
その翌日、頭取を受任した五町村長は石場に集合した。だが、地元頭取の田代町長が事実上の頭取であって、他の頭取は毎月一回の定例会議に出席するだけであった。その頃窯焼から出石料値下げの要請があった。だが、田代だけが反対して拒否した。一方窯焼は先の会談で廃止になった窯焼輪番制を復活させるなど昏迷が続いた。そこで新郡長福島輝世は両派の代表を招んで抜本的解決を計ろうと努力したが、これも遂に実を結ばなかった。
現地では町民多数が群衆して四村長の頭取解任決議を頭取会議から帰途の新村助役に突き付けた。この事件以来四村長は石場に寄り付かなくなった。又、年末には石場頭取有田町長の名を以て再度の出石料の値上げを窯焼へ通告するなど、一旦は解決したかに見えた抗争は再燃したまま明治二十四年は暮れたのである。 明治二十五年四月には、先に有田町が町の石場所有権を否認した樺山知事を訴えていたのに対し地主は未定であるとの長崎控訴院の判決が下った。それは知事から各町村長宛の「石場地主の儀関係人民協議の上来る六月二十六日までに申し出よ」の達になった。これに応えて窯焼派は内外窯焼が地主であると出願した。だが、県は人民協議の上申し出づべきことで窯焼だけの出願は受け付けぬと却下した。そして、同日付けで知事は郡長を通して、石場の納税義務者は有田町と新村の内外尾、黒牟田、応法、曲川村の内南川原、大山村の内広瀬、大川内村の内大川内、一ノ瀬の一町七字となすと示達したのである。
この示達によって納税義務者が地主だとする県の意図がこれで分明したと一番喜んだのは一町四ケ村の共有を主張していた新村々長松村定次であった。
又、町民派も有田町の専有ではないが、有田町には十七分の十の権利を認めたものとして受け入れざるを得ないと認識したのである。
形勢不利と感じた内外窯焼は、十ケ月以上も機能していない町村長の頭取制は無意味であるから、これを解任して町民派を威圧出来る人物を頭取に持ってきて力を以て石場勤番所を掌握するという作戦を立てた。そして、選んだのが元の有田分署長警部の鹿江秀敏であった。それに応じて彼は数人の屈強な壮士を引き連れて有田に来た。それから窯焼に迎えられて石場勤番所を占拠したのである。その上分署に要請して数名の巡査を警備に協力させた。そこで町民派は遠巻きにしたまま行動出来ずに対峙の状態が数日も続いた。 樺山知事の後任永峰弥吉から紛議解決に協力を頼まれたのは旧友の松村辰昌だった。新村の出で松村定次の叔父である彼は急遽有田に帰って仲裁に当たった。先ず彼は石場の占拠を止めた上郡に対して鹿江の頭取就任の認可申請をすべしと窯焼を説得した。町民派は南里助役名を以てこれに故障を申し立てたため、郡役所はこの申請を却下したのである。
翌明治二十六年は景気も回復し、四年も続いた紛争に双方共に倦怠の感が強くなっていた。一回目の町会議員の改選には話し合いの機運が起こって両派による結論は、一級議員九名を窯焼派から二級議員九名は町民派から選出する。町長には田代健に代わって渡辺源之助を全員一致で推薦することになった。
二十七年六月、前年末部長になった高須欽は三派の代表を郡役所に招集して、無条件で一任するとの三派の合意を取り付けた郡長は左記の通りの案を提示したのである。
「明治二十五年七月一日県より達したる納税義務者を以て石場共有地主とし、地主たる十七字は町村制に準じたる組合を組織し、その組合が石場を管理運営するものとす」
町民派と外山派は直ぐ賛意を表した。だが、窯焼派は躊躇逡巡した後漸く賛成したのである。それから三派間の折衝が数日をかけて精力的に続けられた。第一は組合議員の定数と振り当てについて、町民派と窯焼派は字母に一名というのに対して外山派は内山外山各十名を主張した。 第二は管理者について、前者は有田町長とするに対して後者は五町村長の輪番とすると主張した。
結局は夫々譲り合って、組合議員は二十名とし内山外山各十名の同数とする。管理者は有田町長ということになったのである。こうして六年に及んだ騒動は解決を見たのである。
その後大正二年に起債の都合から、管理者は部長になったが、大正十五年の郡制廃止で再び有田町長に還元したのである。
第九章 明治後期の有田
(一)鉄道開通と両駅
明治二十七年(一八九四)五月に九州鉄道会社によって佐賀武雄間の鉄道が開通した。この九州鉄道会社は、明治二十一年八月に福岡、熊本、佐賀、長崎の四県が共同して設立したもので、社長には政府の世話によって農商務省局長の高橋新吉が就任した。本社は門司にあってこの四県の鉄道網の建設を進めていたのである。
佐賀-柄崎(現在の武雄)間の工事が終れば次は武雄から長崎県へ向かう長崎線だった。九州鉄道の当初計画は武雄-有田-早岐の線だった。だが、婚野方面では武雄-嬉野-彼杵の線の方が距離が短縮されるとして運動を起こそうとする機運が生じたので、これを阻止するため、有田、佐世保、早岐が連合して運動を展開したのはその年の初頭であった。 明治二十七年二月の終りには、武雄から有田への延長について、有田町から深川栄左衛門等や新村から前田儀右衛門等が門司まで足を運んで九州鉄道会社長高橋新吉や門司にいる常議員等に陳情している。
その理由として、有田と新村の十三山が有田焼の中心であって海外輸出のため、伊万里港から神戸、横浜へ輸送するのは年間九十万俵であり、他の十四山(大外山を含む)分まで合算すると百五十万俵である。しかし、伊万里までは車力又は牛馬の力に依っている。だが、天候不順の時などはとても困難である。又、伊万里港から横浜、神戸への航海船は百屯余りのもので毎月二回か三回に過ぎないので、納期を守ることは大変である。運賃も産地から伊万里までの駄賃や伊万里での経費と汽船賃を合計すれば一俵に付き十二銭にもなる。
幸い今回佐賀武雄間開通の機会に有田まで僅々十二キロの延長が出来れば百五十万俵の陶器は全部門司港へ輸送して、毎日出帆している汽船に積み込めば従来二十日以上を要したのが僅かに二・三日で済む。又、運賃もずっと低廉になる。それに武雄有田間は山を崩したり橋を架けたりする難所はないので、工事は至って容易である。又、阪神や下関等から移入している陶磁器の諸原料や薪材なども鉄道を利用出来るから、是非とも有田へ延長されたいというのであった。
そして、一方では有田の鉄道委員等が佐世保に出張して佐世保の鉄道委員と連携して運動を起こしたのである。有田、佐世保、早岐の連合したこの運動よりも佐世保軍港に通ずるという軍事的条件が優先して、嬉野の誘致運動は効を奏しなかった。 明治二十九年四月、南里平一が町長になった。そして、九州鉄道と交渉に当たる委員に窯焼派から田代呈一、町民派から松本庄之助が正式に任じられた。その下に各区から一名宛十名の委員が選任されたのである。だが、有田町と九鉄との交渉は最初から難航した。第一は停車場の位置であり、第二は用地の買収であった。
有田町は町民世論に従って駅の位置を中樽と主張した。だが、九鉄は外尾山付近というのであった。九鉄の基本計画書には停車場は有田に設けると明記してあるから、有田以外の外尾山は逸脱するではないかと有田が言えば、有田というのは有田町に限らず有田村も含むと九鉄は反発する。この年早くも新村の名を有田村に変えた村長松村定次の先見がここにも見られるのである。
九鉄は、中樽は周囲に山が迫って横の面積が無い上に高地だから地形上不可である。又、近々に敷設される伊万里鉄道との連絡を考慮すれば外尾山付近が最も適していると主張するのであった。町は、九鉄が自説を固持すれば有田町の土地は一片といえども買収に応じない。又、町内での測量も絶対に許さぬと強硬であった。
そこで九鉄が譲歩して有田町と有田村との境界付近、即ち町と村とに半分づつ跨がった岩崎付近とすると設計を変更した。その後両者が妥協した結果、先に九鉄が示した岩崎は赤絵町トンネルと余りに接近しているので、外尾山との中間地(現在の場所)を停車場の位置とする、と同時に中樽に荷物積卸場、即ち貨物駅を設置するということで落着した。 そして、明治三十年七月、武雄早岐間が開通して有田駅が営業を開始した。翌三十一年二月、中樽荷物積卸場、即ち貨物駅が開業したのである。
明治四十年七月に九州鉄道は国有になり、翌年には鉄道院が創設された。有田町はこの機会にと中樽貨物駅を普通停車場に昇格する運動を起こしたのである。二名の鉄道委員の内田代呈一は明治三十四年に死去していたので、一人になった松本庄之助が単身昇格運動を続けた結果、明治四十二年に何とかその目的を達した。
即ち、町村が建設費用を負担すれば、政府の認可は要しないでその地方の管理局の認可だけで出来るという簡易停車場に昇格したのである。
そして、この年の春上有田停車場は竣工し全町挙げて落成祝賀会を催うした。各区は思い思いの趣向を凝らした余興を出した。中でも岩谷川内区の出し物は美々しい花魁道中であった。有田の方言で「降りない」ことを「おいらん」と言う。岩谷川内の者は有田駅が近いので、上有田駅には「おいらん」が、全町のお祝だから喜びは共にすると言う心意気の趣向だったのである。
この時町が負担した建築費は僅か二千円だったので、マッチ箱のように小さく貧相であった。だが、大正五年には全額政府の費用を以て普通停車場として拡張された。その建設費は八千三百六十五円を要したと言う。
有田駅の発足より約一年遅れて明治三十一年八月、伊万里鉄道が開通している。以下肥前陶磁史考より引用する。 「(前略)私設伊万里鉄道が開通し、有田駅に接続するようになってから陶磁器取引上密接な関係のある両町間に多大の便宜を生ずるに至った。この鉄道の企画は去る明治二十八年八月で、資本金三十五万円を募集し発起人は田中藤蔵(初代伊万里町長石丸源左衛門の弟)本岡儀八(伊万里銀行頭取)藤田与兵衛(多額納税者)松尾広吉(貞吉の子で多額納税者)中村千代松(後の伊万里町長で県会議員)柳ケ瀬六次(浜町陶器商)山崎文左衛門(同上)等で田中藤蔵が社長であった。そして、この建設については、時の郡長高須欽の斡旋が大変力になっている。(中略)従来有田から伊万里までの人力車代は片道一円を要したので、多くの有田商人は鞋を履き歩いて往復していた。しかし、この開通で四十二銭で往復が出来、しかも歩いて六時間を要したのが僅か一時間余りで往来出来るに至ったのである。」
しかし、伊万里鉄道の営業は振るはなかった。ニケ月目の十月には早くも九州鉄道に身売りせざるを得なかったのである。
(二)鉄道開通直前のこと
窯焼の製品をその委託によって定期的な入札で販売する会社が有田町と外山に夫々出現したのは明治二十九年のことである。この年は日清戦争直後の好況の年であり、陶磁器の全国生産高も史上最高を記録した。又、九州鉄道会社による長崎線が翌年七月の開通を目指して武雄早岐間の敷設工事と有田駅の建設工車が進行している最中であった。
藩政時代、内外山窯焼の製品の内地向販売は伊万里商人が独占していた。有田の商人は錦付物とガサと称する等外品しか販売することは出来なかった。だが、維新の変革後は有田商人が徐々に台頭し、又、窯焼から転業する者もいて伊万里商人の牙城は日々衰えを見せてきた。そして、目前に迫った鉄道の開通は伊万里港より舟運に頼らない処の流通革命を予見させるに至った。 即ち、伊万里商人への隷従関係から脱した窯焼の自主性の確立への機運が醸成されたのである。それは窯焼の製品は自らの手によって販売しようとする動きであった。その具体的な表われが有田町に於ける有田磁器合資会社と外山三ケ村による肥前陶磁器合資会社の相次ぐ設立となったのである。
いずれも社員窯焼の製品をその委託によって販売する会社で、その方法は定期的な入札による。対象は伊万里と有田に居住する商人で、会社が規定するところの資力とその他の資格を具備する者に限られた。
有田磁器合資会社、一般には丸磁会社と称ばれ有田町の窯焼で構成されている。
一、本店 有田町田代呈一宅
二、目的 磁器の受託販売
三、設立月日 明治二十九年八月二十五日
四、資本金 四千円(社員四十名)
無限責任社員十四名 三千五百円
有限責任社員 二十六名 五百円
五、業務担当社員(社長)田代呈一
六、増資 明治三十九年資本金一万五千円
七、解散 明治四十五年二月
前年の八月に設立された無限責任有田陶磁器信用購買販売組合に吸収される。
肥前陶磁器合資会社
一、本店 有田村二八九番の三
二、目的 陶磁器委託販売
三、設立月日 明治二十九年十二月十一日 四、資本金 四千円(社員三十六名)
無限責任社員十一名 三千五百五十円
有限責任社員二十五名 四百五十円
五、業務担当社員(社長)青木甚一郎
六、増資 明治四十一年 資本金九千円
七、解散 大正三年十月
社員の大部分は明治四十四年に伊万里で設立された伊万里陶磁器株式会社に販売を委託する。
この入札による商工間の流通方法は昭和十五年(一九四○)の日陶連の統制まで四十四年間続いた、有田焼産地の主なる流通の形式であった。
明治二十八年(一八九三)十月一日、有田徒弟学校が開校した。
江越丸太の主唱にもとづいて設立された勉脩学舎を基盤に、一般実業教育の普及に伴い、更に当時実業教育令の発布により、有田町、新村、曲川村、大山村、大川内村の一町田村立で設立された。その維持費は主として磁石場の収入と県と国庫の補助を仰ぎ、不足分は有田町費より捻出した。校長には岐阜の川崎千虎を招聘した。分科は製坏と陶画の二科目であった。実技教師には、泉山の深海竹治が彫塑を、白川の江口米助が捻細工、上幸平の楢崎武吉がろくろ細工を担当した。そして、明治三十三年四月、佐賀工業学校有田分校に発展し、同三十六年四月には佐賀県立有田工業学校に独立し、寺内信一が校長となった。 分科は従来の陶画、製品模型の外に陶業及び図案の二科を増設している。
明治二十九年三月、有田五二会によって陶磁器品評会が有田町の桂雲寺で開催された。五二会というのは、元元老院議官の前田正名が官を辞した後、全国を遊説して地方産業団体の育成と殖産興業運動の結果生まれたもので、有田では深川栄左衛門と田代呈一が代表であり、品評会の費用は深川が負担している。この民設の品評会は第四回までで、第五回から西松浦郡陶磁器同業組合の主催になった。
(三)西松浦郡陶磁器同業組合
明治三十三年(一九○○)から昭和十五年(一九四○)まで四十年の長い年月、西松浦郡の近代陶業を統括領導したのが西松浦郡陶磁器同業組合である。今日の有田陶業の基礎はこの組合によって構築されたと言っても過言ではない。
明治三十二年に「重要物産同業組合法」が公布された。明治三十年に公布された「重要輸出品同業組合法」を輸出品だけに限定せず、広く国内向け物産にも拡大するのがその趣旨である。
有田では明治二十九年の佐賀県令によって西松浦郡陶磁器業各組合交渉会を開設している。各組合は次の通りである。
西松浦郡有田町磁器窯業組合長 田代呈一 西松浦郡有田町磁器錦付業組合長 手塚五平
西松浦郡有田町磁器商組合長 田代与一
西松浦郡有田村外三村陶磁器業組合長 勝屋玄九郎
西松浦郡伊万里町南波多村陶磁器業組合長 柳ケ瀬六次
この交渉会が大同固結したのが、明治三十三年に発足した西松浦郡陶磁器同業組合である。同業組合の組織は五部から成っていて、第一部は有田町製造業者で有田町磁器窯業組合全員。第二部は有田町錦付業者で有田町磁器錦付業組合全員。第三部は有田町販売業者で有田町磁器商組合全員。第四部は有田村、曲川村、大山村の製造、錦付、販売の当業者で有田村外三村陶磁器業組合から大川内村を除いた全員。
第五部は伊万里町南波多村陶磁器業組合全員に大川内村の当業者を加えたものである。業種別人数は窯焼九十一名、赤絵屋五十四名、陶磁器商人八十七名である。
組合長には有田町磁器窯業組合長の田代呈一、副組合長は中野原の有田町磁器錦付業組合長西山盛太郎(前任者手塚五平)、評議員の深川栄左衛門と藤井寛厳は有田町窯焼、同じく林源吉は有田町磁器商組合長(前任者田代与一)で大樽の商人、同じく辻重之助は十六家の一人で赤絵町の赤絵屋、同じく松村定次は当時の有田村村長、同じく石丸善蔵は初代伊万里町長石丸源左衛門の弟で伊万里屈指の陶磁器商、伺じく柳ケ瀬六次は大樽の出身で当時は伊万里で陶磁器商だった。
この組合の主なる事業は左の通りである。 一、組合員の製造及び販売金額の品種別、仕向別統計と品質検査数量の集計
二、徒弟の養成(明治四十三年より)
三、専製権及び専売権の審査と付与
四、懸賞図案の募集
五、品評会の開催と有田焼出品協会の運営
六、職工の雇用登録、組合員は毎年一月に向う一ケ年の雇用契約を結んだ職工の氏名、性別、職種、賃金を登録し職工の争奪を禁止する。
以上
明治四十四年四月、有田町一三五六番地(現在の有田商工会議所)に物産陳列館を建設費一万一千円を投じて開設し、組合事務所として組合解散まで続いている。
同業組合が品評会の主催者になった明治三十五年の第七回品評会では、それまでは出品物はすべて泉山の陶石を原料にしたものに限られていたのを、この会からその制限を撤廃して、天草陶石を原料としたものも出品を認めたことが注目される。
(四)明治三十年代の有田
明治三十二年六月、有田村外尾山の貿易商青木甚一郎は資本金一万五千円の合名会社青木兄弟商会を創立した。その製品のマークには最初宝珠状の青を用いたこともあったが、後は専ら角青を用いることになった。製品は内外向けの高級品及び普通品で巨器から小盃にまで及んだが、輸出向の外、内地向の鉄鉢、円鉢、組丼、肉皿類を大量に生産し、益々工場設備を拡張して、新式の機械を採用した。
明治四十年の統計によれば、職工及び徒弟六十と労働人夫十五計七十五人で、トップの香蘭社の職工及び徒弟六十六と労働人夫四十三合計百九人に次いで二位を占めている。深川製磁は四十九人、有田村二位の梶原謙一郎は四十人である。
明治三十五年には名工井手金作が内山から追放されて黒牟田山に移住している。 彼は当時稗古場で窯を焼いていた。父は大樽の細工人国太郎である。明治十年姫路の永世社(外尾山出身の松村辰昌経営)に雇用されて、妻と金作の妹を連れて有田を去った。残された金作は十二才だった。
彼は本幸平の窯焼山口勇造方の細工見習として住み込んで陶技を磨いた。孤独の境遇は自分以外には頼む者はないとして涙ぐましいまでも試練に耐えて奮励努力した上、生まれつき器用だったので二十前で当時の名手と並んで遜色ない大物作りを得意とする細工人になったのである。
後年独立して窯焼になると、生来の粗放と驕奢な生活は富貴な王侯も顔負けするという位であった。だが、一度筒袖衣(トツポウ)を着て車壷に入ると泉山の陶土はろくろに舞い踊り立ち所に三尺五寸口径の大瓶掛数個を捻り出す妙技を持っていた。
彼が作る物は、生積みでも九十%の窯取れという。こうして生積みで焼き出されては他の窯焼には迷惑千万であった。遂にこれが問題になり、粗製乱造防止の名目で尺口以上の器物は一切生積みを厳禁する規定が設けられた。なお、違反者に窯を貸した者も同様に多額の違約金を徴収されることになった。
二年目には応法山に移って二年間、製造を続けた。だが、その制裁も消滅したので、再び有田に帰って窯を焼いた。金作が来るまでは小花瓶などを製作していた応法山は、彼が残して行った手型によって石膏型を作って技術も非常に向上したという。
金作は昭和八年八月二十九日、死去した。享年六十八才だった。 明治三十年代に二つの記念碑が建立されている。その一は江越礼太のそれであり、その二は八代深川栄左衛門のである。以下肥前陶磁史考より引用する。
「明治三十一年六月、如心江越礼太の門下が発起人になって、恩師の頌徳碑を陶山神社境内に建設した。そして、題額は小城旧藩主子爵鍋島直虎で、文学博士久米邦武が撰文し、書は同藩人木道の中林悟竹の揮毫である。
明治二十五年一月三十一日江越礼太が長崎丸山の仮寓で逝去した。行年六十六才。彼は去る二十四年十月二十一日に有田小学校長と勉脩学舎長の職を辞して、長崎へ行ったので、有田町は彼が尽瘁した功績に報ゆるため、生涯年金二百円を贈ることにしたのである。
(中略)由来有田には陶業発展についての貢献者は決して少なくない。しかし、江越の様に晩年に他郷から移住して来て、自分は陶業者でなく従って何ら利得の目的はなくて、家産を投じて実業学校の設立に尽瘁したことは、我が陶山の恩人として忘れてはならない。宜なる哉(もっともなことである)その盛徳を追慕した町民子弟は太正三年から四月十五日にはその碑の前で町祭の式を執行することとしたのである。」
「明治三十三年十月、関係有志が発起人となり、深川栄左衛門真忠の記念碑を陶山神社境内に建設した。題額は大隈重信、撰文は文学博士久米邦武で、筆者は冗長崎控訴院長西岡逾明である。
(中略)明治二十二年十月二十三日、深川栄左衛門は逝去した。行年五十八才であった。前名を森太郎と称し又龍阿と号した。 天資俊邁剛毅であって大変謹厳だった。その先祖は小城郡三日月村字深川の人、深川又四郎が寛文年間(一六六一-七二の間)有田に移住したのを初代とし、爾来連綿として陶業に従事して七代の孫忠顕になって、宗藩の御用達を命じられるようになった。その頃佐賀藩と鹿児島藩とが契約していた柞灰販売の藩営を改正して、深川忠顕と川原善之助とに一手販売をさせたのである。忠顕の子真忠は、明治元年長崎出島パサールに支店を設け、蘭人との直接貿易を開始し、爾来斯業上の功績は勿論、公共事業に貢献したことは少なくない。」
明治三十五年、有田村に於て、初めて松村式一軒窯が築造された。
在来の連続式丸窯では焼成に時日を要し、且つ燃料の松材の価格が益々騰貴するので、名古屋に転住していた松村九助は嗣子八次郎と共に窯の改良に腐心し、種々研究した結果、薪材石炭何れにも応用出来る両面焚口式の一軒窯を案出した。 そして、九助は有田村に来て本家の松村定次邸の前庭に初めて一軒窯を築造し、青木兄弟商会と香蘭社で築窯させている。
(五)明治四十年代の有田
青年実業会の佐賀県連合会が明治四十年(一九○七)四月七日、伊万里商業学校講堂で開催され、県下各地の青年実業会から夫々の議案が提出された。その時吾が有田青年実業会が提出した議案の中に県立陶磁器試験所の設置を県当局に建議する件があった。これが二十年後の昭和二年(一九二七)に県会で可決されて翌三年八月に左の設置要項通り決定している。
一、昭和二年度通常県議会の議決を経たる予算三万七千円を以て、西松浦郡有田町に第一窯業試験場を設置する。
二、今回更に、新たに高取盛氏より窯業試験場建物及び設備として価格一万五千円の物件寄付ありたるを以て、藤津郡塩田町に第二窯業試験場を設置する。 この有田青年実業会は明治三十一年に発会した二十才代の商工業者の集まりで今日の青年商工会議所のようなものである。発起人総代は二十七才の深川忠次で、初代会頭は深川栄左衛門である。翌三十二年の春季大会では正会員四十余名、特別会員(名誉会員)六名で会頭には久富三保助が選ばれている。
明治四十三年、辻勝蔵の長子喜一は大阪の商人和久栄之助と共同して上有田駅前に有田製陶所を創立した。当初汽車の便からして有田駅近くに位置を求めていた。だが、上有田駅実現の見込が立ったので、有田町の誘致によって上有田駅前に変更したのである。
専ら建築用の磁器タイルを製造した。そして、和久単独の事業となった四十四年には十万円の資本金になっている。又、壁タイルの他、床タイルとモザイクタイルも製造した。
明治四十四年一月、本寺平の深川忠次は新宅の窯と世人が称んでいた工場を資本金十五万円の深川製磁会社に発展させている。社長は長子進、常務取締役は次子勇とし、主なる出資者の佐賀の福田慶四郎、唐津の大島小太郎、福岡の伊藤金次が取締役に、鹿島の森田判助は監査役に就任している。名実共に同族会社を脱皮して近代的な株式会社になっている。有田陶業界では初めてのことである。
深川製磁会社の母体である新宅の窯は、明治二十七年(一八九四)香蘭社から独立した深川忠次の工場である。 彼は明治二十六年のシカゴ万博に出品し、自ら出席して一等金牌を受賞している。これに自信を得て独立したものと推量される。
なお、明治後期の万国博覧会は左の通りである。
明治二十二年(一八八九)パリ 一等金牌 九代深川栄左衛門
明治二十六年(一八九三)シカゴ 一等金牌 深川忠次
明治三十三年(一九○○)パリ 一等金牌 深川忠次
明治三十七年(一九○四)セントルイス 一等金牌 深川忠次
会社設立の前、明治四十三年一月に深川忠次は宮内省御用達を拝命している。
明治四十四年五月には伊万里の柳ケ瀬六次、平井卯七、末石喜左衛門等が発起して資本金六万円の伊万里陶磁器株式会社を創立し、平井が社長、末石が専務になった。主として波佐見、木原、江水諸山の製品を委託販売する入札を社の業務とした。
その年八月には、近く解散する有田磁器合資会社の改組として産業法による有田陶磁器信用購買販売組合が生まれた。 そして、九月に有田物産陳列館が落成したので、そこに事務所を置いた。
四十四年十一月には久富季九郎が蔵春亭を再興して中野原幸恩に工場を建設して諸種の優秀な磁器を製作したのである。
第十章 大正年代の有田
(一)南洋印度視察団
大正三年四月、山本権兵衛内閣の後を承けて大隈内閣が生まれた。七月には第一次世界大戦が勃発し、日本は対独宣戦布告をして参戦したのである。その年の十一月総理大臣大隈重信は佐賀へ帰郷している。その時有田に来て石場、工業学校、香蘭社、深川製磁等を巡覧し、翌日は前年六月に落成した有田小学校の講堂に於て全町民に呼び掛け、有田焼の国際的地位を自覚してその発展を期せねばならぬと講演している。
有田小学校について当時の佐賀新聞は次の通り報じている。「新築校舎は教室二十二、講堂、理科室、作法室その他の特別室八室あってその構造の広大で、その建築の周到なことは実に県下第一と称すべく、殊に理髪所、救療所等を設くること小学校としては完備と言うよりも寧ろ贅沢過ぎるの感がある。」と。 この講演を間いて大変感激した名工井手金作は特別に径二尺八寸の孔雀絵の大金魚鉢を精製して大隈総理に寄贈している。
この時大隈から示唆があったのか、県は翌四年二月、南洋印度方面へ県産陶磁器の販路開拓のため、視察団を派遣することになった。有田からは香蘭社員薄地徳一と外尾山の青木甚一郎、藤津郡から堤清一、大串音松が選ばれた。ドイツとフランスが戦争に巻き込まれている今が、南洋進出の絶好のチャンスと県は判断したのである。
視察団調査の目的は
一、取引されている陶磁器の種類
二、輸入の状況
三、本県陶磁器の輸入の状況と取引の方法
四、需要者の嗜好にあった陶磁器の改良
五、販路拡張及び輸出上参考となる事項
であった。そして県費より金二千円を捻出して調査費に充当することとなった。その額は現在の二千万円に相当する。
藤津郡の二名は二月十五日、有田の二名は二月二十七日神戸から出発し三月十六日、シンガポールで落ち合っている。そして、藤津郡組は主としてマレー半島を巡歴した後、香港経由上海から中国の内部に入ろうとしたが、日貨排斥が盛んだったので、計画を変更して帰国している。有田組は印度を巡歴することになり、コロンボを経て三月三十一日にボンベイ着、ここに二十四・五日滞在してカルカッタに汽車で行きここでも約半月滞在して帰国の途についている。 藤津組は堤清一、有田組は青木甚一郎が夫々視察談を佐賀新間に発表している。堤の報告によれば、低廉な硬質陶器や尾農地方の製品と対抗することは難しいと強調している。だが、青木の報告は極めて楽観的である。事実藤津組の場合はマレー半島のゴム碗の受注は多少あったものの、成果は大したものではなかったようである。
青木の場合は有田産陶磁器の受注は殆どなかった。だが、三井物産印度支店と接触した青木は、低廉な瀬戸製の碍子であれば相当の需要があると確信したので、その滞在中に名古屋の松村八次郎と連絡して数百屯の碍子の注文を獲得したのである。
松村は同じ有田村の出であり、明治の末期、青木は石炭窯の築造をこの松村に依頼するなど親交があったので、電信で連絡しあって瀬戸製の碍子を青木製として受注に成功したのである。彼の印度滞在が長いのもそのためであった。
数百屯という大量だったので、日本郵船は長崎に寄港させて印度へ運んでくれた。 瀬戸から貨車で輸送されて来る碍子を有田駅でその荷札の出荷主を青木に改めて長崎から積出したのである。この商談で相当の利益を上げたので、彼は堂々たる製品陳列所を新築している。香蘭社などにも遜色のないものだった。
(二)陶器市と李参平碑
第一次大戦の開始と共に有田も活況を呈し、産地の機運も高まり、そして、次のような新しい動きが見られた。一つは品評会々期中の蔵さらえであり、もう一つは李参平碑の落成であった。以下は「肥前陶磁史考」の記述より
大正四年五月陶磁器品評会(五月一日より七日間)開催に際し、「有田之友」を発刊している深川大助は同人の中島浩気(肥前陶磁史考の著者)と徳見知敬(明治初年十二小区と称した有田郷の戸長徳見知愛の子)と計って、この際陶祝祭を執行することを協議し、同時に各陶器店に一斉蔵さらえを挙行させようとの議を提案した。知敬は大いに賛成したが、浩気は同意するのに難色があった。 それというのは、昔から相当の陶器商では、等外品や端物のようなのは嫁や子供達の小遣に充てられていて馴染の市外人(等外品や端物の陶磁器を売買する商人)に一括して売っていた。それを今更一々洗って店先に並べるなど同意しないだろうという。
大助はこれに答え、決してそうではない。それは市売りがどんなに面白いか知らないからである。この市売りが早岐の茶市のように一斉に挙行されて例年の行事になれば、いろいろな工夫もあって、方法次第では意外に発展するかもしれないと主張した。
浩気も単に自分の店の等外品や端物の販売程度なら試みてみるのもよかろうと漸く同意した。
時の町長久富三保助も賛同したので、六助が主催者になって当業者を勧誘すると共に、有田青年会が主となって協賛会を組織しこれが市の実行部隊となった。こうして全町の本通り筋は装飾され、各店の店先には思い思いに陳列された見切り品売りの陶器市が発足したのである。
買上げ一円単位の福引券を発行し、購買品は協賛会員が無料で有田上下面駅に運搬した。駅長駅員も協力して顧客の乗り込みを助けるなど万全のサービスをした。後では臨時列車も発着するようになって、買物客で全町は一杯になり大正年代で売上十万円を突破するほどの盛祝を示した。
又、来客の誘引策として、会期中に各種の催し物を劇場や社寺などで興行した。 即ち、義太夫大会、謡曲会、俳句会、短歌会、歌留多会、囲碁会、将棋会、古陶陳列会、書画骨董会、生花会、盆栽会、蓄音機会、筑前琵琶会、大弓会等、何れも近県の天狗達をして、我と思わん者は飛入り勝手と歓迎したのである。これは七十余年前のことである。そして、昭和十年には、陶器市二十周年を記念して功労者の慰霊祭を挙行して、久富三保助、徳見知敬、深川六助と青年会長として尽力した久保与平、井手虎治の英霊を祀ったのである。
又、六助は知敬と浩気と計って大正六年に陶祖李参平の三百年祭を挙行すると共に、記念碑の建立を提議した。そして、深川等は常務委員として建碑の衝に当たり、深川栄左衛門を委員長に、大樽の林源吉を工務委員、同じく藤井寛蔵を会計委員とした。
その他協賛委員として辻勝蔵、松本庄之助、城島岩太郎、雪竹豊吉等が任じられた。
そして旧藩主鍋島侯、多久男、蓮池の鍋島子、鹿島の鍋島子、武雄の鍋島男等の賛助を得て、李氏頌徳会を組織し、大隈重信侯を名誉総裁に推戴した。こうして巨額の寄付が集まったので、その偉功を永久に伝えるため、陶山社の後背蓮華石山に一大頌徳碑が建立された。大正六年十二月のことである。そして、今日まで五月には毎年陶祖祭が行なわれている。
なお、碑面「陶祖李参平之碑」の書は侯爵鍋島直映の揮毫に成り、裏面の撰文は佐賀中学校長千住武次郎、書は沢井如水である。撰文の現代語訳は左の通り 「我が陶祖李参平氏は朝鮮忠清道金江の人である。文禄元年、豊臣秀吉公征韓の役の時に鍋島軍の為に力を尽くすこと少なくなかったので、慶長元年藩祖直茂公が凱旋の時同行して日本に帰化させた上参謀長多久安順に世話をさせた。金江の人なので金ケ江の姓を名乗らせたのである。初め小城郡多久に住んで彼が習得し熟練している製陶を始めたが、良い原料が得られなかった。そこで、元和年間、松浦郡有田郷乱橋に来て陶業に従事し遂に泉山で磁石を発見した。それから白川に移住して初めて純白の磁器を製作したのである。実にこれが日本での磁器製造のはじまりである。それからはずっとその製法を受け継いで来て今日の盛況を見るようになったのである。このことを思えば、李氏は我が有田の陶祖というだけでなく日本窯業界の大恩人である。
そこで、陶磁器の業に従事してその恩恵に預かっている者は誰でもが李氏が遺した功績を尊敬しない者はいないのである。」
有田町史商業編2の217頁の左の記述を以て本節の結びとする。 「第一次世界大戦下の好景気の中で、陶器市が創設され、李参平の記念碑が建立されたことは、第二次世界戦争によって多くを矢ったにもかかわらず、有田の精神を久しく今日まで伝えることとなった。」
(三)帝国窯業と柿右衛門焼合資会社
大正七年四月八日、外尾村(現在の岩屋磁器本社)に資本金五十万円の帝国窯業株式会社が創立された。これは辻勝蔵の次子清が神戸の豪商内田信也を誘致して起業させたのである。当時、欧州大戦後の影響と米価高騰の結果、前年大正六年以来大変な好景気で、諸種の戦争成金が続出した。この内田もその代表的人物である。
清は専務取締役となり、松村定次の息子清吾は常務取締役としてこの二人で業務を鞅掌(支配すること)した。そして、古市熊太郎が技師長だった。又、応法山にも第二工場を新設した。 本工場は総坪数七千坪、内建坪五千坪で、二百貫入トロンミル及び二十台のスタンプ機をはじめ、最新の学理を応用したいろいろの設備を整え、天草石を原料として、当時至難とされていた硬質陶器の外国向け食器類を製造した。従業員は大正八年十二月末現在で三百十四人の有田第一で、二位の香蘭社は百八十一人であった。
しかし、大正十一年には経営不振に陥って社長内田信也は小畑秀吉に譲渡している。それは大正八年の従業員数三百十四人がその翌年の大正九年には二百四十八人に減っていることでもその衰退ぶりがうかがえるのである。
内田はその後代議士になり鉄道大臣にもなっている。
小畑秀吉は当時柿右衛門焼合資会社の社長であった。取締役には松村清吾の外金ケ江頼四郎、広川真澄、酒井田柿右衛門等が就任し、釣村芳が技師長になっている。そして、対州白土、三石蝋石や本土等を混合して、一種の新硬質陶器を完成して、熊本市の鳥居陶器店を特約店にした。
大正十三年九月一日に、森峰一が小畑秀吉から帝国窯業会社を買収し、森窯業会社と改称して建築用タイルを製造することになった。彼は元本幸平の窯焼森友次郎の息子で、久しく満州で鉱山事業を経営していたが、故郷に帰って父祖の業を復興したのである。 そして、昭和三年二月に森峰一は、本県第三区から衆議院議員に当選した。だが、窯業会社は昭和四年、世界的な大恐慌のため、業績不振に陥ったので、又、小畑が買い戻して彼が経営する岡山の明治窯業所の分工場として、筒江の原石等を混用して製陶を続けた。
この小畑秀吉について肥前陶磁史考は、柿右衛門焼合資会社の項で、大正十四年に会社を設立したとある。だが、有田町史陶芸編の二宮都水についての記述によれば、都水は大正十年に深川製磁から柿右衛門焼合資会社の工場長として引き抜かれ就任したとある。そこで肥前陶磁史考の大正十四年はおかしいと思ったので、法務局で登記簿を調べたところ、柿右衛門焼合資会社の設立年月日は大正十四年ではなく、大正八年四月である。
肥前陶磁史考の記述とは六年の差があり、大正十一年に小畑が譲り受けた帝国窯業の取締役の中に金ケ江頼四郎と酒井田柿右衛門の名のあるのも理解出来るし、二宮都水のことも首肯出来る。
以下登記謄本から
一、商号 柿右衛門焼合資会社
二、本店 西松浦郡曲川村丁三五二番地
三、目的 陶磁器製造販売
四、設立年月日 大正八年四月二十八日
五、社員名ト出資額
一金一万円 無限責任 戸畑町 小畑秀吉
一金五千円 有限責任 刈田村 林田護
一金五千円 有限責任 戸畑町 小畑保平 一金五千円(登録商標権評価額五千円)
有限責任 曲川村 酒井田柿右衛門
六、存立ノ時期 存立ノ日ヨリ満五十ケ年
以下肥前陶磁史考より引用する。
「大正十四年(八年の誤り)四月福岡県人小畑秀吉は、十二代柿右衛門に対し資金を提供して、二万五千円の柿右衛門焼合資会社を設立し、同山の辺り丸山に洋風の工場を建築して、南川原本邸の工場と共同経営することとなった。(中略)昭和三年十二月柿右衛門は予備陸軍中将堀田正一の後援を得ることになり、合資会社からの退社を申込んで小畑秀吉とは分離することとなった。
そこでこれまで使用していた角福の商標は、法理上会社の所有権として残ったので、自邸工場だけで製造することになった柿右衛門は『柿右衛門作』の銘を用いることになったのである。」
柿右衛門窯がどうして小畑秀吉の資金援助を受けなければならなかったか、又、誰がその斡旋をしたかについては、肥前陶磁史考も有田町史も触れていない。合資会社の資本構成を見れば、二万円を小畑秀吉とその縁故者より、五千円を十二代柿右衛門が角福の登録商標の評価額として現物出資をしている。このことからして推量されるのは、柿右衛門窯の経営が資金に乏しく困難に陥ったため、憂慮した或る地元の有力者が小畑に協力を求めて生まれたのがこの会社であろう。又、古老の口伝によれば或る有力者は中野原の金ケ江頼四郎という。 先に記した、帝国窯業を小畑が譲り受けた時の役員の中に柿右衛門と並んで金ケ江の名のあることもこれで理解出来る。
五千円と評価された角福の商標について、肥前陶磁史考によれば、福は元来中国古陶磁の銘であって我が国でも肥前だけでなく九谷でも用いている。肥前では黒牟田方面に多く殊に福島助五郎などは専ら角福銘だけを用いたという。又、小城の松ケ谷焼にその銘があるのは、五・六代頃の柿右衛門が松ケ谷焼指導のため小城藩主から招聘された時に用いたものと思われる。
十一代柿右衛門が商標登録の法令が出ると逸早く明治十八年に角福銘を自家の商標として特許登録をしたため、従来この銘を用いていた者は使用出来なくなった。
だが、これに反発して使用を続けた窯焼もあって裁判沙汰にまでなっている。しかし、特許登録の法による柿右衛門の方が強くて、侵害した者は若干の訴訟費用を負担するなどして明治四十年頃漸く解決している。
謄本には存立の期間を満五十年としてある。昭和四十三年がそれに当たるので、柿右衛門焼合資会社はその時消滅して仁和窯になった。勿論角福の銘はその時点で柿右衛門家に戻っている。
森峰一から小畑に帰った明治窯業はその後どうなったかと言えば、昭和十二年に岩尾磁器工業が小畑から買収している。岩尾新一氏著「一道の灯」からその辺の事情を見てみよう。 「現在の本社工場(当時明治窯業又は窯業会社と称した)を買収する事に意を決した。仲介役は今は亡き松村石油店の松村(弥太郎)氏と川崎宝次郎氏であった。所有者はつい先般物故した小畑秀吉氏である。この人は鉱山師(耐火原料の)又、企業家で福岡県苅田の出身、岡山県三石の付近で明治窯業という耐火煉瓦会社を経営して居り、何と言っても異色太っ腹の実業家で当時六十才位か。(中略)この価格は五万四千円だったと記憶する。この金は大阪の岩尾の叔父さんから出して貰って『お前の力で会社式に本式にしっかりやれ』と強く念を押されて借用した。」昭和十二年春といえば、岩屋新一氏が学業を終え家業に専従するようになってから四年目である。
この岩屋磁器工業の大正年代については、肥前陶磁史考の左の記述から見ることにする。
「大正十年七月、資本金五万円の岩尾合資会社が創立された。代々大樽で営業していたが、大正八年に当主の芳助が死去したので、弟の卯一が業務担当者になっており、大樽の工場の外に上幸平の有田陶業所を松本祐四郎から買収して改築し、これを第一工場として大樽を第二工場に改めている。 こうして耐酸磁器、碍子及び磁製ローラ等、専ら科学的特許品を製造するに至ったのである。」
(四)深川六助のこと
大正期の有田に於て、特異な足跡を残したのは前節の小畑秀吉である。だが、彼は有田人ではなく他郷の出身だった。有田人にして明治四十一年から大正十二年まで十五年間、大きな足跡を残したのが深川六助である。その大きな足跡としての陶器市と李参平碑については前節で記述したので、その他のことを有田町史などから見ることにする。
明治四十一年(一九○八)深川六助は泉山年木谷の自宅を開放して日曜学校を開いた。日曜学校には近所の子供達が二十人ばかり集まり、時には佐賀から外人の宣教師が来てキリストの話を聞かせた。クリスマスにはツリーにカードやゴム毬が吊してあり、帰る時にはそれらの物が皆に配られた。そして、聖歌を歌う時は妻のキヨがオルガンを弾いた。年木谷の日曜学校は深川六助が白川に転居するまで続いた。 彼は白川の窯焼深川常蔵の次男である。明治二十年一月四日、文部大臣森有礼が白川小学校を巡視した時、六助は校長江越礼太の推薦により選抜生に選ばれて九月六日に上京、森有礼の書生となって住み込み、美術学校へ通学したが、二十二年二月十一日に森有礼が刺客に襲われて暗殺される事件があり、彼はやむを得ず叔父の田代市郎治を頼って横浜の田代商店で働いた。横浜時代に彼は望月キヨと結婚した。キヨは明治二十八年二月十七日郷里の会津若松市の教会で洗礼を受け、それから横浜に出て六助と知り合い結婚した。結婚後六助も洗礼を受けてキリスト教に入信したが、病気のため四十一年に横浜を去って有田に帰り泉山年木谷に住んだ。明治四十二年には岩尾卯一の好意により、有田町大樽一一一七番地の岩尾宅に於て、佐世保から牧師を招いて集会を開いている。
大正二年(一九一三)九月、父常蔵の死去により白川に移って家業を継いだ。
彼は有田に帰る前の明治三十七年には農商務省嘱託の視察員として米国セントルイスの万博に出張している。帰郷後病勢が快方に向かったので、同志等と「有田之友」という小誌を発行した。そして、有田青年会の会長になって、陶器市協賛を指導している。大正六年には町会議員、八年には郡会議員、十年には県会議員に当選している。
その間石場事務長になっている。そして、一大英断的計画を立て、組合員の協賛を求めて、大正九年から十二年にかけて、百八十間(三百二十米)の放水トンネルと崩壊の排除に約十万円を投下する大工事を起こしている。その頃の石場管理者は西松浦郡長樫田三郎、副管理者は有田町長深川栄左衛門であった。 又従兄弟に当たる栄左衛門の懇請によって香蘭社の顧問になり深川家の家政や分家との融和などにも貢献している。大正九年には深川栄左衛門が理事長である有田陶磁器信用購買販売組合の監事になっている。
その頃、有田小学校の一部を借用して開設されていた幼児保育所を旧役場跡地に移転して必要な施設と器材を整備して幼稚園として大正八年に認可を受けて彼は園長を兼任した。
県会議員としては、県立窯業試験場を塩田に設立するという議案に真っ向から反対して有田優先の考え方を不動のものにした。又、労使間の紛争を調停すること、或は未然に防ぐ方策などについて、それに対する施策を強く県に要請している。だが、大正十二年三月五日、県議現職にして死去した。
行年五十二才であった。昭和三十八年には、陶山神社境内に胸像碑が建てられた。碑銘は鍋島直紹の撰文である。
(五)大正時代の有田陶業界
本節は主に有田町史通史編から引用する。第一次世界大戦が勃発した当初は、欧米向けの輸出が殆ど途絶え、又、内地向け製品も米価の下落で不振となったが、大正五年に入るとアメリカ向けの輸出が少しずつ動き始め、又、南洋・印度・中国方面にゴム碗・コーヒー碗そのほか日用品の新販路が開け、陶業界は次第に活気を取り戻した。
このような輸出陶磁器好況の波に乗って、従来内地物を専門にしていた生産地も輸出物の生産に転じた。愛知県は大正五年には輸出物八分内地物二分、岐阜県は輸出物七分内地物三分の割合となった。肥前物も又輸出物に全力を注ぐようになった。西松浦郡に於ては大正四年にくらべて五年の生産高は十五パーセント以上の増加となり、藤津郡に於ては南洋方面へ輸出するゴム碗及び北海道向けの徳利など売れ行きが活発となり、これ又前年に比べて三十パーセントも増加した。 大正六年の佐賀県全体の陶磁器産業を見ると、大正二年の生産高は百七十万円以上であったが、大戦勃発の大正三年から四年に於ては百二十万円に減少した。しかし、南洋・印度・中国方面に新しく販路が開けたこと、アメリカに対する輸出が回復してきたこと、米価が高騰して一般の購買力が増大したことなど好条件が重なって、大正六年六月における最近一年間の海外輸出額は六十万円以上に上り、総生産額の三十パーセント以上を占めている。
このように好景気となったので、陶磁器界では職人の不足が深刻化しつつあった。なお、有田の陶業家は一軒窯を新設して窯入れ回数を増加し、この好況に対処する設備を整えつつあった。特に注目すべきことは工業用品や碍子の需要が増大して、この部門での生産が伸びたことである。
しかしながら、このような好況の裏には輸送力不足という問題があり、神戸・横浜・長崎各港とも貨物が停滞しているので、商館では注文を控える傾向が見られるようになった。
大正七年には、我が国の陶磁器輸出額は更に増加し、供給不足の状態となった。一方石炭や工賃及び運賃なども高騰したので、陶磁器の市価も高騰し、食器皿一ダース平均一円二十銭、コーヒー碗一ダースー円六十銭~一円七十銭となり、大戦前と比較すると平均六十~七十パーセントの高値となった。
大正八年に第一次大戦が終り、欧州の経済界が次第に回復するにつれて、陶磁器業界にも不況の波がおしよせてきた。欧米向けの輸出が途絶えると同時に内地向けも不振に陥り、在庫の量が増大した。従って価格も暴落し、好況の時と比べると実に四十パーセント以上の大暴落となった。 それでも大正三年頃の戦前の相場と比べると未だ二倍の高値であったが、有田では十年一月頃から工場の大整理を行ない、職工賃金の値下げを断行した。職工の賃金は平均して細工人一日二円五十銭、画工二円、雑役天一円五十銭となった。
この頃、銅版口切り「いげ皿」の人気が出て中流以下の家庭に歓迎された。又、都会の家庭向けの贈答品として茶器で十五円、菓子器九円、花瓶十一円から十二円のものがよく売れたが、全般的には売れ行き不振は免れなかった。大正十四年になると、いくらか有田の陶業界にも明るい光が見えはじめ、十五年には前年をいくらか上回る状態になった。
大正年代に二つの業界紙、即ち肥前陶報と松浦陶時報とが生まれた。以下肥前陶磁史考より
「大正十年十一月十五日、肥前陶報第一号が発刊された。本紙は当時の青年商人である赤絵町の庄村吉郎、本幸平の松本台太郎、同松本栄治、大樽の浦田林一、岩谷川内の馬場森作等によって発起されて大宅経三が主筆になり、古賀勇が事務を担当、庄村吉郎が発行人になって斡旋していたが、同十二年末より上幸平の松本静二によって継承され、彼が発行人になった。
大正十三年五月二十五日、平林専一が松浦陶時報を発刊した。 彼は先代伊平の長男で、孤嘯又は紅渓と号し、久しく上海に移住していたが、今度故郷に帰って縦横の筆を揮うことになったのである。」
前者は商人を対象とする情報紙であって、産地の相場などを全国の市場に報ずるなど地味な経営方針であった。後者は縦横有田という論評を主とする別紙を発行してやや派手な傾向があり、政治的な面が強かった。
第十一章 昭和初期の有田
(一)第一窯業試験場設置さる
この四月二日にオープンした佐賀県窯業技術センターは六十四年前の昭和五年(一九三○)に佐賀県立第一窯業試験場として中樽(法務局のあった辺り)に建設された。それから遡ること二十三年の明治四十年、有田青年実業会が佐賀県青年実業会の連合大会で提案したことから始まる。そこでその二十三年間の経過を辿ってみることにする。
先ず有田町史政治社会編2から引用する。
「昭和二年(一九二七)度の通常県議会で試験場建設予算三万七千円が可決されたが、その設置場所をめぐって争奪戦が行われ、実施に移されないまま経過したが、その間に高取盛氏から窯業試験場建物及び設備費として一万五千円の寄付があったので、これを以て第二窯業試験場を設置することになり、昭和三年八月二十日新庄知事は左記の設置要項を発表した。 設置要項
一、昭和二年度通常県議会の議決を経たる予算三万七千円を以て、西松浦郡有田町に第一窯業試験場を設置する。
二、今回更に、新たに高取盛氏より窯業試験場建物及び設備として価格一万五千円の物件寄付ありたるを以て、藤津郡塩田町に第二窯業試験場を設置する。
第一窯業試験場は有日町中樽に建設され、起工は昭和四年一月、落成式は五年六月十三日に挙行された。整地工事及び橋などの付帯工事は有田町が負担し、十馬力のモーター一式(価格一万五千円)は久富二六が寄付した。又、敷地買収費は多く町民の寄付によるもので、その主なる寄付者は左の通りである。
二千円 久富季九郎
千五百円 深川栄左衛門
千円 井手虎治
千円 青木幸平
千円 深川忠次
六百円 青木栄蔵
五百円 手塚嘉十
五百円 蒲池正
三百円 徳永賢次
三百円 山口佐雄
二百円 今泉今右衛門
百五十円 山本頼一
(そのほか省略)」
職員は場長一名、技手三名、兼任一名、嘱託一名、助手二名、職工四名、使丁一名、給仕一名である。場長は大須賀真蔵で、彼は数年前京都の陶磁器講習所の所長の時、有田の業者ともいささか因縁があった。 青年実業会の提案後、その幹部等は町の有志達の協力を得て数次にわたって県へ請願した結果、県は漸く大正五年五月、有田工業学校内に佐賀県技術員出張所を設けて技師一名と助手一名に一室があてがわれた。そして、県下一般陶業に関する質問に対し説明を与え、諸材料の試験や鉱物分析等の依頼に応ずる便宜を提供することになった。
大正十一年四月、その年の三月から開催されている平和記念東京博覧会観覧と業界の宿望である陶磁器主産地視察を目的とする団体旅行を西松浦郡陶磁器同業組合が発起した。総勢四十七名で副組合長松本静二を団長として京都、名古屋、東京へ旅行をしたのである。
京都では農商務省立陶磁器試験所と五条坂の京都陶磁器講習所を見学した。
試験所では有田と縁故の深い水町和三郎や徳見知孝が所員として懇切に案内してくれた。京都陶磁器講習所では当時所長だった前記の大須賀真蔵が自ら懇篤にして該博な説明をしてくれた。この視察で皆は試験所の必要を痛感したのである。当時の有田業界が焦眉の急務としていたのは泉山磁石の改良と石炭窯の技術指導の二点であったからである。
このような有田の動きに刺激されたのか、大正十一年末の県会では、藤津郡選出の大渡熊次と杵島郡選出の田口文次の両県議が連名して「大正十二年度ニ於テ藤津郡塩田町付近ニ工業試験所ヲ設置セラレンコトヲ望ム」と建議したのである。これに対して深川六助が強く反駁したことは前章で述べた通りであるが、この建議は賛否が半ばしたため、議長採決で一応は通っている。 だが、その後具体的な進展を見ないのは県の財政事情によるものと判断されたので、大正十三年、有田の業界では佐賀長崎両県による組合を結成して組合立の試験所をと町長名を以て両県知事へ請願した。だが、両県からは何らの反応はなかったのである。
そこで西松浦郡選出の県議諸石兵蔵の協力を得て同業組合長と町長の連名で、技術員出張所の独立拡張という名目を以て、その敷地は地元で負担するという条件を付して県宛て請願したのは昭和二年のことである。
一方藤津郡も運動を続けていたが、昭和二年の県議会で建設費三万七千円は可決されたもののその位置は不明のままだった。その間知事の大島破竹郎はこの件を裁断することなく新庄祐次郎に替わっている。
そこにたまたま高取盛の寄付申出があり、前記の通り新庄知事の裁断になった。
その理由についての知事の談話は昭和初頭の陶業界の状況をも明らかにしているので、左記の通り松浦陶時報から引用する。
「(前略)本県窯業製品の主産地は有田を中心とする西松浦郡方面と塩田町を中心とする藤津、杵島両郡地方の二方面に分かれ、両者の製品の種類販路は全く違い、前者は美術装飾品、高級食器、錦付品等で昔から特色を発揮して来たものであって、最近は更に高圧碍子、建築用陶器、硬質陶器等の製品を産出している。後者は朝鮮向け砂鉢、南洋向けゴム碗その他一般低廉な日常食器類等の製作を主としている。従って今後の指導開発に関する対策方針は両者については自ら区別があって、その試験研究の方法も異なってくるのである。 翻って本県工業生産の現況を見ると、窯業製品は今後最も重要な工業品であるが、産額は僅か四百万円内外で、往年の全国第一の地歩も今日では愛知(三千四百万円)岐阜(一千万円)の両県が鋭意製品の改善、生産費の低下、市場の開拓等に努力した結果、産額の点に於て遥かに蹴落されて、殆どこれらの地方には対抗出来ない程に沈滞したことは大変遺憾に堪えない実情である。これを復興して優勢の地位に進ませるためには、独り有田地方の既成窯業地の改新を期するだけでなく、塩田地方の新進窯業地に対しても共に完全な試験機関を整備し斯業の根底からの発達興隆を遂げさせることは今日特に緊切のことである。
第一窯業試験場を西松浦郡有田町に選定したのは、昭和二年度産額は左の通りで産額は勿論窯数、錦窯数、職工数等で有田町が郡内の中心地であることは明らかであり、且つ県立工業学校の有益な参考機関ともなり、生徒の練成上裨益(役立つ)すること少なくはないからである。
第二窯業試験場を藤津杵島両郡中塩田町に選定したのは、塩田川の水運によって原石の移入や生産品の移輸出に利便を有するだけでなく、近く肥前山口長崎間の有明線が開通すれば一層便益を増すであろう。その他塩田川流域の水車は陶土の粉砕に供されているなど、塩田町は自らこの地方の中心地を形成して、将来発展の余地が多いからである。(後略)」 昭和二年度西松浦郡町村別窯業統計表
町村 本窯 錦窯 職工数 生産額(円)
有田町 48 92 826 1,001,153
有田村 40 5 780 850,000
大川内村 11 0 235 135,000
大山村 2 2 131 128,000
曲川村 6 1 88 58,000
計 107 100 2,058 2,172,151
(二)産地流通の主導権有田商人へ移る
待望久しかった第一窯業試験場が建設中の昭和四年の肥前業界は昭和恐慌の影響によって不振を極めていた。昭和五年三月十日の佐賀新聞は次の通り報道している。
「昨四年度の陶磁器成績(西松浦郁陶磁器同業組合)
西松浦郡陶磁器同業組合の昭和四年度に於ける成績を見るに組合員二百三十四名で先づ製造高に於て内地向のもの百五十五万四千三百七十三円、輸出向のもの四十万三千四百十八円で前年に比し内地向に於て八万六千四百六十四円、輸出向に於て七万一千五百六十五円合わせて十五万八千二十四円を減じ、又、販売高に於ては内地向のもの二百二十万三千五百八十三円、輸出向のもの五十七万四千三百九十六円で前年に比し内地向に於て三十一万四百八十六円、 輸出向に於て八万五千三百八円合せて四十一万五千七百九十四円も滅じているがこれも不景気の影響である。」
この影響の具体的な表われとして、昭和五年に有田陶磁器信用購買販売組合が解散している。以下重役の資材提供と題している肥前陶磁史考の記事を引用する。
「昭和五年七月、有田陶磁器信用購買販売組合が、経営不振のため解散することになった。この組合事業も後年には商人の代金不払いや破産者が出たり、或は窯焼への貸金の返済が停滞するなどが相次いだ。その上事務員の不正消費などから遂に資金借入れが増大して、再度の整理も効果無く債務だけが増加するので、断然解散することに決した。
そして、その欠損補填のため、重役が私財を提供することになり、組合長深川栄左衛門は四万二千五百円を提供し、次に山口佐雄と竹重周次は二万四千五百円宛を、久富二六と山本頼一は七千五百円宛を弁済したのである。」
この組合は前述した通り明治二十七年に設立された有田磁器合資会社が産業組合法によって、改組されたもので有田町全窯焼によって成り、入札販売の始まりでもあった。だが、前年十二月六日に西松浦郡陶磁器工業組合が設立され、窯焼集団としての存在価値が失われたことも解散の一つの理由でもあった。
ちなみに、工業組合長には本幸平深川栄左衛門、理事には外尾山青木甚一郎、広瀬山今泉幸次郎、同じく森林太、上幸平岩尾卯一、同じく古賀米助等が就任し、組合員百十六名である。 丸磁会社、後では丸磁組合と称した窯焼主導のこの入札機関は三十六年目にして消滅したので、有田町には商人主導の肥前陶磁器株式会社、伊万里町には商工連合の伊万里陶磁器株式会社、有田村には同村窯焼七人から成る任意団体七福会とが残ったのである。青木甚一郎を会長として、藤本巻助、梶原謙一郎、梶原菊太郎等の七福会はその頃では休眠状態に陥っていた。
従って産地流通の主流である入札取引は事実上肥前陶磁器株式会社(以下肥前会社と略称す)と伊万里陶磁器株式会社の二社によっていた。伊万里会社については第九章で述べたので、以下肥前会社について肥前陶磁史考から引用しながら記する。
大正八年十月、肥前会社が有田町に設立された。
従来は有力な一部の製造家を除く他、郡内の生産品はすべて入札によって卸商に販売され有田町の製品は丸磁組合に、有田町以外の製品は伊万里会社に委託されていたのを、有田町の卸商と一部の窯焼はこれを不便だとしてこの会社の設立となったのである。
大正十年に肥前会社は、その営業の目的が同じである長崎県の波佐見陶磁器株式会社を合併し、佐賀長崎両県の製品を、毎月二回ずつ交互に入札販売をすることになった。
この波佐見の入札会社については波佐見町史下巻から見ることにする。
「大正七年一月十三日『長崎県東彼杵郡陶磁器株式会社』が創立された。上・下面波佐見と折尾瀬の三ケ村の陶磁器製造業者百名が出資し、資本金五万円で、事務所を井石郷に置いた。 社長は長野常道(宮村の酒醸造、当時長崎県会議長)専務取締役今里友次郎(波佐見銀行頭取)支配人松添亀太郎、それに三ケ村から役員が出た。」
合併後の肥前会社は資本金十五万円(払込済十一万二千五百円)本店を有田町に、支店を上波佐見村井石郷に置いた。役員は代表取締役二名とし松本静二と今里友次郎、松本が社長になった。取締役は有田五名、波佐見四名。監査役は有田四名、波佐見三名で入札会は本支店共に月二回。
大正時代は順調に進んだ。だが、昭和に入ると全国的な恐慌の影響によって経営は極めて困難で度々危機に逢着した。だが、大正期以来並々強力になった有田商人に支えられて凌いできた。
しかし、昭和八年には松本静二が社長として常勤して四万五千円の減資を断行、累積赤字と不良債権を一掃して立ち直ったのである。
明治三十年頃の鉄道開通後は、それまで唯一の輸送手段だった船便に頼る必要がなくなり、伊万里商人の存在条件が薄れたので、有田商人の力が逆に増大したのである。その頃まで有田には市外人と称するガサ商人と錦物を扱う商人だけしかいなかったのが、昭和十年前後には、卸商は有田四十二名、伊万里六名、藤津郡四名、上下波佐見十七名、折尾瀬と早岐七名になっている。明治三年に四十余名いた伊万里は僅か六名に減少している。勿論伊万里から有田に移住した商人は大正から昭和にかけて十名に近い。 有田での商人の増加はそれだけでなく、従来の市外人から成長した者、窯焼や赤絵屋から転業した者、又、伊万里への運搬が皆無になったため、失業した荷担ぎ人(有田の方言でにいにやあという運搬夫)等の転業などで急速に増加したのである。
更に商人の力を太らせた最大の要因は伊万里商人から継承した窯焼との取引方法である。それは六金勘定と称して日陶連共販になった昭和十五年頃まで続いている。江戸期の有田窯焼の焼成歩留まりは、上と称する一等品六十%、ツラと称する二等品が三十%、ガサと称する三等品が十%であり、二等品の価値を七十%、三等品を五十%とすれば全体の価値は八十六%になる。これが三段選別である。
この選別は元来選方荷師と称して窯焼と商人から公認された独立した専門の職人が当って公正を期したものであった。この職人達も集散地が有田に移行するにつれて伊万里から移住して来た。この職には荷造りの重労働に堪えなくなった荷師が転向していた。だが、明治以降は大手の卸商に専属するようになって自然に権威を喪失するのである。
選方荷師を雇えない二流三流の商人では店員や店主自身が選別するようになった。そして、商人の力が強くなるにつれて八合六勺(八十六%)が一等品の建値のパーセンテージになって、二等品は建値の六十%、三等品は窯焼に返品するという慣行になった。狡滑な商人は実際の選別を帳簿上だけ改竄して支払いをごまかす傾向さえ生じたのである。 又、その上に選別には見落としもあるとして全体から三%を差し引く三分引の慣行も何時の間にか定着したのである。そして、これらの慣行が、大正から昭和にかけて商工間の紛争の中心課題として争われて共販制になるまで続いている。
その間東京を市場とする有田の仲買商人が特に急成長した理由としては、有田の火鉢が高級志向の東京方面で歓迎されたため、火鉢専門の窯焼が増えた。だが、火鉢の需要期は一年の三分の一だから、三分の二に当たる不需要期中操業を続けるのには相当の資金を要する。彼等が所属する丸磁組合にはその間を融通する資金力もなく、不需要期中の製品を格納する倉庫もない。勢い有力な仲買商人に依存しなければならなかった。不需要期に仲買に依存しないで丸磁組合の入札にかけると二束三文の安値になる。
従って窯焼達は資力と倉庫を持つ有力な仲買との間に夫々年間契約を結んだのである。
ただ需要期になれば仲買と談合の上入札にかけてその年の相場を公開の場で決めるのが慣行になっていた。例えば年間契約値一円二十銭の尺五の瓶掛を最需要期の入札にかける。 東京向以外の商人も時期になれば火鉢が欲しい。従って火鉢の相場は高騰する。即ち、仲買が予期した相場まで吊り上がる。仮にそれが一円五十銭まで上がれば仲買の倉庫の品も一様に一円五十銭になり、三十銭の利鞘が自ら生ずる仕組であった。このような経過から産地流通の主導権は有田商人に移って行ったのである。
(三)昭和初期の特筆すべき事項
大正十五年には、従来その使用はタブーとされていた天草石視察を西松浦郡陶磁器同業組合が正式に実行している。泉山石から天草石への転換を阻止することは出来なくなったからである。その趨勢は昭和に入って益々盛んになり、昭和初期の泉山石の使用比率は左の通り低下している。
昭和三年 三十一.八%
昭和四年 二十一.四%
昭和五年 十六.○%
数年後には十%以下に低落し、僅かに工業用品やタイルなどに限られ一般の磁器には殆ど顧みられなくなった。そして、昭和六年には十三人の石場の肝煎違は父祖伝来の火薬庫や相撲場用品などの物件を組合に譲って廃業した。 この衰運を何とか挽回しようと石場組合では昭和七年には郡内の粘土業者は泉山石を三割以上調合するように粘土業者と窯焼に交渉した。だが、天草石へ傾斜する時勢の流れは遂に阻止することは出来なかった。
昭和になって県は石炭窯築造奨励のため、一窯平均四百円を奨励金として補助する規定を公布した。その頃既に西松浦郡の窯焼七十一戸の内二十%は石炭窯に転換していたが、この補助によって昭和初期には殆どが石炭窯に転換した。又、有田町では昭和七年に町営貸窯使用条例を公布して、一号窯は同年九月二号窯は九年に竣工している。勿論これらの窯は石炭窯である。
大正十三年に名古屋の日本陶器会社が創始した赤絵用鋼鉄電気窯は全国に普及し、有田でも香蘭社と深川製磁が試みた。
彩釉の光沢は漆蒔のように焼き上がって薪焼成では半透明になる欠陥を改良した。だが、鋼鉄壁の窯一個を据え付けるのに千円以上の設備費を要するので、有田では赤絵町の庄村吉郎が薪窯と同じに粘土壁による方法を研究して好結果を得た。そこでたちまち普及を見たのである。大正時代に始まったゴム判印画法が盛んになり、赤絵付には勿論、染付にまで応用されるようになったのも昭和初頭のことである。
昭和四年には最初の普通選挙が有田町と村とに行なわれた。有田町では今までの有権者百二十名だったのが十倍に増えて千二百名以上になった。有田町十八名、有田村十二名の定員である。この選挙の頃は金融恐慌による資本主義の危機的様相が見られて、有田業界も不況が深刻なため、労働者は否応もない賃下げに直面していた。 そして、荷師組合が結成され、有田町では上幸平の辻三郎による社会民衆党支部が発足した。又、日本労農党の政談演説会も開催された。この選挙には無産党から町二名、村一名が立候補したが、いづれも最下位で落選した。
昭和二年には、四ケ年の継続事業として、有田町本道路の改装工事が始まった。工事に着手したものの不況緊縮のため、一時中止し六年末に漸く成就したが、その後アスファルト舗装を施して昭和七年に完成したのである。これは前町長深川忠次、現町長江越米次郎、助役井手虎治、収入役岸川英一郎を始め町役場吏員らの尽力によるものであった。
長さ八百三十間(一六○○米)幅員五間(九.五米)橋梁三ケ所、舗装面積三千五百五十坪、総工費二十八万円、内地元有田町より七万円、残額二十一万円は国費と県費の折半の補助である。
大正十五年に昇格した有田警察署が昭和五年五月に本幸平(現在の派出所)に新築落成した。町が四千五百円、村が千円寄付して入る。
当時不況に喘ぐ佐賀県特産の有田焼を挽回するため、県が主催して昭和五年から六年にかけて県庁と有田とで数回に亙って窯業振興相談会を開催している。特に半井知事が熱心であった。 これより先、昭和三年九月大阪三越での有田焼展覧会が予想以上の成績を挙げたので、翌四年一月には同業組合は新たに有田焼出品協会を設立して積極的に各地で宣伝即売会を開催したり、各博覧会や共進会等への出品の斡旋をした。この年早くも朝鮮博覧会に出品し、北海道では有田焼宣伝会を開催した。翌五年には満州大連市で宣伝即売会を開催、満州事変後の昭和八年には大連事務所を開設して見本を陳列宣伝に努めた。
昭和六年十月には有田焼見本市協会を発足させて全国初めての陶磁器見本市を開催した。会期は二日間で、第一会場は有田小学校で商工一体の見本を陳列し、第二会場は仲買各自の店舗とした。
招待客は全国に亙って北海道から台湾、朝鮮、満州に至るまでの主なる陶磁器卸商約五十名であった。売り上げは十三万円で、会後知事も出席して市場側の忌憚ない意見を聞いた。 第三回見本市は昭和八年九月、三日間開催され、参加者は西松浦藤津両郡の業者四十余名で招待した陶器商は三百名を越えた。そして、招待客には汽車賃と宿泊料をサービスした。だが、この見本市が景気回復に寄与したことは言うまでもなかったのである。
(四)磁器帯止と二宮都水
昭和の初期から新製品として現われた磁器製帯止が段々に人気を呼んで香蘭社、深川製磁をはじめとして帯止製造が盛んになった。その間に先発メーカーである二宮都水が帯止裏面に紐を通し国定させる装置を工夫考案した。それが八年一月十五日、公告一一八類四帯止実用新案として特許されたのである。
当然二宮は同業者に対してロイヤルティを要求した。だが、同業者は一斉に反撥し問題は同業組合に持ち込まれたのである。ところがその紛争の最中に東京や大阪の関係筋から有田焼の帯止は特許侵害ではないかと、有田町と同業組合とに抗議的な照会があって、有田業界は内輪もめの段ではないと色めき立った。
早速、東京の県物産宣伝即売会に出張中の同業組合の辛島書記と有田商工会の庄村吉郎は特許局に出頭して調査した結果、類似品の製造差支えないということになった。 大阪の朝山亮太郎が珊瑚、鼈甲などに紐通し専売特許を四年以前に受けその一部を他に譲渡したことは事実であるが、品種の異なる有田の磁器帯止がこれらを脅威する筋合いはなく、悪ブローカーの為にする宣伝と分かった。そして、朝山が特許を得た以前に有田では製造していた事実も判明したのである。
思いがけなく産地を襲った外憂は解決し、都水の特許権は生き返った。だが、その間暫く鳴りを潜めていた内輪もめが再燃した。そして、同業組合に持ち込まれたのである。
同業組合では副長の松本静二がこの解決の衝に当たった。その結果、二宮都水は帯止の専売権を同業組合に譲渡する。組合は特許番号のレッテルを製造業者に交付して一個に付き三銭を徴収し、これを二宮に支払うものとする。但しレッテル印刷代などの費用は差し引くとした。
一年余に亙って有田を震動させた帯止間題はここに解決したのである。
この二宮都水については、有田町史から見ることにする。本名は錠太郎、明治十三年、愛知県瀬戸に生まれた。
京都の陶器会社で貿易品の彫刻に従事し、その後多治見の徒弟学校の指導員をしながら、名古屋の米国商館の彫刻主任をしていた実父の二宮竜雲から彫刻を学んだ。明治三十三年、東京浅草の井上良斉の内弟子となり、一方美術学校教師の海野美成に師事して彫刻の技術をみがき、都水と号した。明治四十一年から京都の五条坂で独立して、貿易品の製造を始めている。
同四十五年三十三才の時有田に移り、香蘭社に入社して彫刻部を担当した。その三ケ月後、深川製磁に技術監督として入社し、十年間美術品の彫刻技術を指導した。 大正十年、柿右衛門焼合資会社から工場長としてスカウトされた。その後大正十二年は県から献上する皇太子ご成婚祝の菓子鉢を、昭和三年の御大典祝賀には献上品として白地きりんの置物を柿右衛門と共同で製作している。
昭和三年独立自営して美術置物の彫刻をはじめ、その傍ら帯止の製作に着手した。そして、有田業界にフームを巻き起こした。そのことについて都水の談話は次の通りである。
「吉田弦二郎(佐賀県出身の文学者)夫人にプレゼントした帯止が『えん』で有田焼の帯止が全国に流行した。」
この帯止の技法が戦後有田のミクロス発展の要因になったことを思えば都水の功績は大きい。
第十二章 戦時下終戦までの有田
(一)日華事変頃まで
満州事変後の昭和八年には有田焼出品協会は大連の県物産斡旋所の中に見本を展示するなどして、有田焼の満州市場進出に積極的な宣伝に努めた。
事変まで有田や伊万里の仲買商で満州を市場としていたのは二、三に過ぎなかった。その内岩谷川内の山口兵太郎などは治安が悪かった事変前に匪賊に襲われて着のみ着のまま大連まで逃れて来るなどの事件もあった。だが、満州国成立後治安も良くなり、地理的に近いので、仲買はもとより当時小売商人と称した直売業者も続々と満州市場へ進出した。
これを町史商業編2で引用している昭和九年一月十九日の佐賀新聞から見ることにする。 「近来満州地方へ邦人の移住が漸次増加したに従い、同地方に於ける旅館、料理屋、飲食店の発展は素晴らしいものがあり、一般的に景気立ったため、陶磁器の需要が頓に激増し、県産陶磁器の輸出荷動きが活発となり、殊に有田焼は前月頃から上有田駅積出しの分でも一日十屯貨車一輌位づつを輸出しており、外に有田駅からの積出しもあるので、今日まで既に三百七十屯の輸出を見てストック品は一掃され、新製品にも全能力を挙げる好景気である。該輸出先は大連、新京、奉天等である。」
その頃長い不況に喘いでいた国内経済も事変直後の犬養内間の金輸出再禁止によって不況から立ち直りを見せて来ていた。
それを裏付けるのは不況時にカットされていた労働賃金の上昇現象であったのである。
有田で最も有力な労働組合は、有田町村の荷師達が結成している荷師組合だった。不況が深刻化した昭和五年には磁器商組合から一割五分の賃下げを要求された荷師組合は約半月ストライキを以て抵抗し、結局十銭の賃下げで解決している。だが、その後の景気回復と物価の騰貴を理由に昭和十年、荷師組合は二十銭の賃上げを磁器商組合に要求した。
だが、磁器商組合がこれを拒否したため、三月二十六日から一斉総罷業を決行した。組合長木村健次は長期戦の構えとして大部分の組合員を八幡製鉄所の臨時人夫として八幡へ送った。その斡旋は八幡に居た組合員野田明一の兄貞四郎がしたのである。 陶器市を目前にしてのストライキだったので、有田商工会がその調停に乗り出した。当時の商工会長は松本静二だった。だが、彼は先の賃下げの時の磁器商組合長だったし、現在は退任しているものの、磁器商の立場からして表面に出られないので、商工会委員の小池友三(大樽の酒屋で町議)森永捨吉(上幸平の呉服屋で区長)池田儀右衛門(泉山の赤絵屋)二宮都水(本幸平の陶芸作家)草場春三(上有田通運専務で中樽の町議)の五名が熱心に調停に努力した結果、四月十九日に解決した。即ち、荷師賃金一円六十八銭を七銭上げて一円七十五銭になったのである。当時組合員は百五十名であった。
この年の十月十六日には有田陶磁器錦付組合が設立された。事務所は有田町一四七六番地で組合の事業としては意匠図案考案権登録、錦付材料の共同購入、共同電気窯の設置、共同販売などである。
出資口数九十七、一口の金額は二十円とした。理事は横田長市、諸限貞治、辻勝左衛門、藤本繁一、池田視行、監事は山口三代次、来田善吾が選出された。
日華事変直後の昭和十二年十月には大連の県物産斡旋所は、満州での有田焼の現状を満州斡旋便りで伝えている。これを有田町史商業編2より左に抜粋する。
「(前略)本県物産の代表とも言うべき有田焼は、満蒙の開発に伴い其需要を著しく増進し、今後邦人の増加に伴い益々発展の曙光あり、現在年間取引は食器類、美術陶器、工業用品を併せ約四十万円と予想せらる。 而して食器類は割烹向と一般大衆向とに区別せられ、割烹向は産地業者(小売商)の見本携帯需要家訪間により、殆ど全満に普及し、大衆向は各消費団体を初め専門店又は世帯道具店との取引旺盛を極め居れるが、何れも名古屋多治見等のものに比較して生地の優良なると破損の少なき点は我が有田焼の特色とする所なり。(中略)美術陶器は昭和八年本所開設以来、毎年春秋二回に亙り三越ホールに於て宣伝会を開き一般に紹介したる為め香蘭社、深川製磁会社等認識せられ名工柿右衛門、今右衛門等亦続々進出せられつつある。有田焼発展のため誠に意を強うするに足る。(中略)工業用品中諸碍子並に工業用耐酸磁器は品質優秀の故を以て需要家に歓迎せられつつある。
建築用タイルは、耐寒性に富み其品質良好なるを以て満州の如き寒地に於ては、最適のものと思考せらるるも、其価格不廉(安くない)にして未だ取引するに至らず。」とあり、当時の満州での有田焼の状況が明らかである。
(二)日華事変から太平洋戦争まで 1
昭和十二年七月に起こった日華事変は矢継ぎ早な戦時体制に相応する法令の公布をもたらした。その内の一つとして九月十日に公布された「輸出入品等に問する臨時措置法」は、陶磁器業界に直ちに影響する重大法令だった。当時は実質的には東海三県の工業組合連合体に過ぎなかった日陶連は、これに対応して輸出増産と重要資材の適正使用の管理を行なうとの具体策を立てて、鉛、亜鉛、硼砂、酸化コバルト、酸化ウラニウム、石膏原石などの陶磁器用諸資材の確保を政府に要請した結果、政府はこれ等資材一切の輸入権を日陶連の一手に付与することを決定した。正に政府機能の一手代行であった。
これを知った肥前陶業界の動揺と混乱は名状(状況を言葉で言い表わすこと)し難いものであった。工業組合では日陶連加入の可否が論じられ、陶磁器用資材業者は狼狽した。 有田としても何とか手を打たなければならなかったので、有田商工会は総会を開いて対応を講じた結果、政府に対する請願決議となった。その年の十二月、有田商工会は会長松本静二の名を以て県を通じて商工大臣吉野信次へ陳情したのである。
それは陶磁器用資材の輸入権を日陶連一手に付与しないで、産額は東海地方の十分の一に過ぎないが、それに見合うだけの輸入権を佐賀長崎両県に付与してくれという請願である。だが、商工省の方針にただ追随する県が果たして上申したかどうか。又、軍部のお先棒を担いでいた商工省の新官僚等は一顧だにしなかったに違いない。理事長の梶原仲治、専務理事の竹下豊市は共に商工省から天下りしていて、その日陶連から十分の一の権利を佐賀長崎に頒けてくれというのを承知する筈はなかったからである。
藤津陶磁器工業組合は請願の結果は待たずに十二月、県と協議した上で日陶連加入を決定した。翌年春には波佐見と折尾瀬の長崎両組合が加入を決めた。有田陶磁器工業組合も五月の総会で遂に満場一致で日陶連参加を決定したのである。一方、日華事変の拡大は金属代用品を陶磁器などに求める傾向を促進した。昭和十三年、県窯業試験場では一条場長を中心に全職員総動員の下に試験場開設以来初めてと思わるる程の真剣さで代用品の試作に取組み、その数は郵便ポストを初め十余点に及んだ。そして、九月十八日から開催の商工省主催代用品試作展に出品することとなり、県当局では参事会の決議を経て金一千円を研究費として試験場に交付することになった。 その年の十一月には、商工省が代用品見本製作貴に対し補助金を交付することになったので、有田陶磁器工業組合は組合員の便宜を計る為、申請などについて組合員の希望に応ずる事になった。同時にこの機運に乗じて奨励方針を確立し、各地に試作品の展覧や販売の斡旋、製造家への保護奨励などに熱心な活動を続けている。県では工業組合に対して八百十七円の補助をしている。
昭和十四年四月二十五日の松浦陶時報によれば、左記の通り発明奨励金が原有田郵便局長に交付されている。
「又も町の発明家に特許局から奨励金が交付された。
焼物の街有田町の原鉄雄氏は電信電話の配電碍子板取付用ボールトナットを研究中で特許局に対し奨励金の交付方を申請中であったが、二十八日県に千五百円の奨励金を交付する旨通知があった。(後略)」
この代用品について前年十一月二十五日の松浦陶時報記事から左の通り引用する。
「佐賀県有田郵便局長原鉄雄氏はかねて電信用碍子の鉄心棒が時局の影響を受け供給難となり苦痛を受けているのでこの代用品として欅を以て、腕木に取り付ける捻子は有田焼とし試作中このほど香蘭合名会社付属の電気試験場で試験の結果、風速百二十メートルに対しても聊かの変化を認めぬことが判明、熊本逓信局に照会中のところ、同局工務課でもこれを認め差し当たり鉄棒の最も不足する小二重碍子用として千個の注文を原局長あて発送、鉄棒代用上非常なる貢献をもたらすこととなった。(後略)」 今まで任意団体だった仲買商の有田商人会も時勢に逆らえず産業組合法による組合になった。以下昭和十四年三月二十五日の松浦陶時報より「有田陶磁器卸商組創立す 産業組合法による肥前陶磁器の販売機関として先般来、計画中の有田陶磁器卸商業組合創立総会は四日午前十時から有田物産陳列館に於て開催、定款役員その他を決定、輝かしき販売戦線へのスタートを切ったが、組合員四十七名、出資総額一万七千六百五十円、初代理事長に松本静二氏を推薦、包装材料の共同購入、金融ならびに倉庫利用等その全機能の活動は今後の肥前陶界の動向に多大の貢献をなすものとして刮目(注意して見ること)される。」
こうして有田陶業の各業態は産業組合法による法人にすべて改組されたのである。
(三)日華事変から太平洋戦争まで 2
昭和十四年二月、西松浦郡陶磁器同業組合は遂に解散に追い込まれた。昭和十四年二月二十五日の松浦陶時報の記事より
「西松浦郡陶磁器同業組合解散 併設物産陳列館は町へ移管 有田焼の製造錦付販売の各業態を打って一丸とする西松浦郡陶磁器同業組合は数年前より業態別の商工業組合結成のため、同業組合の解散説が台頭(頭を持ち上げる)その成行きは頗る(大変)注視されていたが、二十一日午前十時から有田物産陳列館に於て評議員および代議員の連絡協議会を開催、種々協議の結果、満場一致右同業組合を解散することに決定。併設の物産陳列館はそのまま有田町に移管することとなった。 ちなみに、同組合は明治三十三年重要物産同業組合法により西松浦郡内全陶磁器業者をもって組織され四十年にわたり有田焼のため多大の貢献をしたものの時勢の変遷により解散になったもので先般愛知県瀬戸市の陶磁器商工同業組合が有田と同様解散し陳列館その他の建物は市営に移管され東西業界が期せずして(思いがけなく)軌を一に(行き方を同じに)したわけである。」
昭和十四年八月六日、有田の有田銀行、洪益銀行及び伊万里銀行と武雄銀行の四行の合併によって佐賀興業銀行が新たに生まれた。これは昭和十二年九月の「臨時資金調整法」の施行から始まった金融統制の一つとして一県一行という大蔵省の政策によるものである。
「資金調整法」とは、満州事変から日中戦争と戦時体制への移行のなかで、金融政策の課題は、軍需産業に対する生産力拡充のための資金の確保と、公債の市中消化の促進に置かれた。同法のねらいは設備資金が不急不要の産業に流出することを食い止め、軍需産業資金を確保することにあった。例えば金融機関が設備資金を貸し付ける場合、十万円以上は政府の認可を必要とし、資本金五十万円以上の会社を設立する場合も政府の認可を必要とした。
佐賀興業銀行合併の要点と人事などは左の通り「佐賀銀行百年史」から引用する。
1、伊万里銀行、武雄銀行、有田銀行、洪益銀行は対等合併し新銀行を設立する。
2、新銀行の資本金は公称三百二十五万円(内払込額百九十二万円)とし発行総株数六万五千株とする。 3、新銀行の名称は株式会社佐賀興業銀行とし、本店は旧武雄銀行本店とする。
4、会長手塚嘉十(有田銀行頭取)
頭取 池永栄助(伊万里銀行頭取)
副頭取 松尾将一(武雄銀行頭取)
常務取締役 蒲池正(洪益銀行頭取)
その他取締役十名、監査役四名が四行から選任された。
5、支店十、出張所一の店舗網を敷いた。
6、合併時の主要勘定の地区別比較表(単位千円)
預金 一四一七九 一○○%
伊万里銀行 六○八○ 四二.九%
武雄銀行 四六六六 三二.九%
有田二行 三四三三 二四.二%
貸付金 六六一七 一○○%
伊万里銀行 二四一○ 三六.四%
武雄銀行 二○六八 三一.三%
有田二行 二一三九 三二.三%
割引手形 四六八 一○○%
伊万里銀行 一四九 三一.八%
武雄銀行 七 一.五%
有田二行 三一二 六六.七%
有価証券 六七二四 一○○%
伊万里銀行 三五○二 五二.一%
武雄銀行 一六一六 二四.○%
有田二行 一六○六 二三.九%
払込済資本金 一九二○ 一○○%
伊万里銀行 六二五 三二.五%
武雄銀行 二二○ 一一.五%
有田二行 一○七五 五六.○%
この年の十一月一日から輸出組合法第九条が拡大され貿易法第十八条として円ブロックと称した満州と中国への輸出にも適用されることになった。即ち、大日本陶磁器輸出組合連合会所属の輸出組合員てなければ指定地域への輸出は出来ない。 というのは、輸出品の梱包には連合会発行の証票を貼付し、輸出申告書には連合会統制の証印がなければ通関が出来ないからである。
又、組合員でも所属組合の定める数量、価格及び取引方法に関する制限に従わなけれぱならないというのである。神戸以西に於ては神戸陶磁器輸出組合に加入している者以外は一品たりとも輸出出来ないという法令である。
当時有田を主とする肥前地方から円ブロックヘ輸出している業者は卸商十名以上、直売商は五十名にも達していたのである。そして、神戸の組合に加入しているのは欧米向輸出の江頭商店と、円ブロック向けの卸商は有田物産商会とカネ有松本商店の二店に過ぎなかった。
有田では円ブロックと朝鮮を主市場とする卸商で満鮮会という親睦団体を結成していたので、この問題は先ず満鮮会でその対応が議せられた。だが、死活に係わることなので、直ちに全員神戸輸出組合に加入することになった。組合への加入は組合員二名の推薦を要したので、有田物産と松本商店とが推薦人になって全員は十月十三日神戸で加入手続きを終えた。
満鮮会では神戸へ行く前、肥商連(佐賀長崎の陶磁器商組合の連合会)に輸出組合加入の希望者があれば推薦する旨連絡していた。それがこの数日間に五十名近く希望者がいるとの事だった。そこで十月十八日、満鮮会員と希望者全員との会合を物産陳列館で開いた。そして、全員約七十名で肥前陶磁器輸出協会を結成、理事長に松本哲雄、常任理事に山口兵太郎、理事に椋露地嘉八、小山鉄次、金ケ江照次、山口秀雄を選任したのである。 なお、とりあえず全員は神戸組合に加入するが、近い将来神戸組合から独立して西日本陶磁器輸出組合を結成すると決議した。だが、小倉の東洋陶器は本部を有田とする事に反対して門司を主張した。それに連合会本部では近い将来に単一組合に改組する方針を立てていたので、実現しなかった。事実昭和十六年には日本陶磁器輸出組合に統合されている。
この年の十二月、有田陶磁器錦付工業組合(理事長諸隈貞治)の日陶連加入が決定した。現在組合員五十三名で金箔、金粉などの原材料の共同購入を行なっていたが、今回これらの原料が日陶連の切符制での一元的配給となったので、この新情勢に即応する為日陶連に加入したのである。
(四)日華事変から太平洋戦争まで 3
昭和十五年に当たる本節は、この年を最後に廃刊した松浦陶時報の記事から見ることにする。
「昭和十五年一月二十五日有田焼の満州輸出間題
新興満州国に対する陶磁器の輸出については今回一切満州生活必需品配給株式会社の手を経てしか出来ない事となり、先に輸出割当制実施について漸く神戸陶磁器輸出組合に加入、解決した矢先またもやこの重大間題に当面した有田陶業者の団体たる肥前陶磁器輸出協会では緊急総会を開催、対策につき協議した結果左記代表者を名古屋に派遣陳情する事となった。 山口秀雄、椋露地嘉八両氏が正式委員となり、それにカネ有松本商店、島健次、浅井秀秋三氏を加え出発したが、満州における小売、卸売の陶磁器一切が満州生活必需品会社を経由せねばならぬとすれば従来地の利を得て有田焼最大の輸出先のこととてその解決如何に依っては業界に多大の影響を与えるものとして大変重視されるに至った。」
「三月二十五日有田焼対満輸出の新会社
有田焼の海外市場として唯一の捌口たる満州国では先に内地より一切の輸入につき満州生活必需品会社の手を通じて行わせることとなり、当然陶磁器もこの中に包含されることになった結果、その対策につき種々検討考案されていたが、今回有田物産商会、カネ有松本商店、小山鉄次商店、椋露地嘉八商店、山口兵太郎商店、北島勝馬商店の六有力商店が有田村の青木兄弟商会、長崎県下波佐見村の小柳製陶所の両窯元と共に発起人となり、有田陶磁器株式会社を結成、対満輸出へ積極的に邁進することとなり、去る二日、約三十余名の株主を集合、創立総会を開いた。現在有田焼業者の対満輸出を行っている者は約六十名を突破しているだけに右発起人以外の業者が更に別個の会社を結成するか、或はまた小売業者のみをもって別個に会社を結成するか、有田焼輸出販売戦線の一大異常として大変重視せられている。 なお有田陶磁器会社の社長は松本哲雄氏、専務取締役に椋露地嘉八氏が選任され、資本金は十五万円で半額払込。」
「三月二十五日 肥前陶磁器貿易株式会社
有田陶磁器株式会社組織以来その去就(どんな動きをするかという態度)に付き注目されていた篠原、浅井、成富その他の業者ら五十余名は今回、新たに松本栄治、篠原兼男、浅井秀秋、成富清九郎、馬場森作、北島虎吉等を発起人として、肥前陶磁器貿易株式会社を組織対満輸出に乗り出すこととなった。因みに同会社は資本金十八万円(内払込七万五千円)とし(中略)来月四日創立総会開催のはずで、卸商と小売商との合併会社だけに今後の動向に多大の興味が懸けられている。」
「七月二十五日 有田焼の共販基礎案成る
佐賀県が全国に誇る有田焼は内部のごたごたと検査制度その他機構の不確立から近く実施される陶磁器の公定価格制から締め出しの形勢で業者の奮起如何はその浮沈を賭けるものとして注目されていたが、柏木経済部長の肝煎で五日県庁で有田陶磁器工業組合及び同卸商業組合代表者が評定の結果、愈々共販の協定に到達、ここに多年の懸案も解決に見えたが、その後工業組合内部に異義が生じたものの、十九日県当局の熱意により大体左記の通り決定を見た。
一、有田陶磁器工業組合員が製造した製品は工業組合の検査を経た後有田陶磁器卸商業組合に引き渡すこと。
二、検査は工業組合の検査に従うこと。 三、荷渡し方法は製造工場又は倉庫で裸渡しとすること。
四、選別方法(値段格付)並品は一等品立切。二等品七割五分。上等品は一等品立切。二等品大物六割五分。小物六割。
五、代金決済と保証金は現金とす。但し荷渡し後四十日以内の約束手形は認めること。
六、格付方法は工業組合並びに商業組合から各五名宛委員を選出決定。
七、取引価格は公定価格による。マーク入りは一割以内増しとす。」
「八月二十五日 窯業試験場国営移管有望
旧臘末の本県会で満場一致国立移管に決定した有田の県立窯業試験場では、地元はもとより県当局を始め本県選出代議士その他各方面より商工省に国立陶磁器試験所九州支所としての猛運動中であるが、昭和十六年度予算編成期を前にしてある程度商工省の了解を得たらしく上京委員より朗報あり、今後は大蔵省企画院などの方面へ予算成立上の側面運動が必要と見られるに至った。因に九州支所としての建前から、先に九州沖縄陶磁器技術官会議で有田の県立窯業試験場を国立に移管することは議決してはいるが、なおこれを強化させるためには九州各県知事連名の陳情書などが最も意義あるものとされ、今後の活動は実現前の猛運動として注目される。」
大正十三年創刊以来町の情報紙として特異の役割を続けて来た松浦陶時報は十月二十五日号を最後に十七年にして廃刊したのである。 その社説は「肥前窯業界は何を以て新体制に順応せん乎」であるが、悲憤慷慨の余り難しい漢文調だから以下現代文に直して掲げる。
「このような時局下、我が肥前窯業界の中心である有田の現状は果たしてどうであるか。私は筆にするには忍びないが、故事にある諸葛孔明が軍律に違反した部下の馬謖を泣いて斬ったような心境で、私情を押えて二、三の例を指摘し、業界の反省を促す事もあながち無駄でないと信じる。
先に満州陶磁器問題に関し、六人の卸業者が有田陶磁器会社を創立したのに対して、六十人余りの卸小売の商人が肥前陶磁器貿易会社を設立して対抗、鏑を削って争っている。
又、一方では有田陶磁器錦付工業組合は、新旧両派に分裂して抗争中でどちらか正しいかと裁判所に訴訟を起こしている。旧派は組合から脱退して錦付振興会を結成、有田、曲川、大山及び伊万里方面の同業者と手を組み益々同業者間の溝を深くしている。
このような同業者間の抗争は遺憾千万であるから、町当局や町の有識者達がその調停に努力されんことを望む次第である。今や我が有田は中間工場の設立や窯業試験場の国営移管など大切な時である。肥前窯業界、特にその主産地である有田の商工業者の諸氏が、時勢の動向をよく見通して目分の利欲だけに執着しないで、国策に順応して産業報国の大道に邁進されんことを切に祈るものである。」 新体制運動の結論として昭和十五年十月、大政翼賛会が発足し、総裁には首相近衛文麿が任じられた。佐賀県では十二月三日、知事を支部長とする支部結成大会が開かれた。翌年一月には町村支部長として有田町青木幸平、有田村青木甚一郎が決定した。三月には夫々翼賛青壮年団が発足している。
懸案の県立有田窯業試験場の国立移管は、翌年の太平洋戦争突入によって戦時体制が強化されたため、遂に実現を見なかったのである。
(五)太平洋戦争開戦から終戦まで
昭和十六年十一月、全国陶磁器製品をすべて包含する改正公定価格が制定された。価格は一級から十五級に区別され、流通上の段階を日陶連価格と卸売業者及び小売業者価格とした。一例として三寸六分の蓋無飯茶碗八級は日陶連一四.三銭、卸売二一.七銭、小売三十銭である。生産者価格は明示されていないが、これは日陶連の共販という意味である。この場合の生産者の手取価格は、日陶連価格の五分引ということが附則で規定されている。
製品の等級格付は、日陶連本部に設置した中央格付委員会が全国の代表的な標準見本に基づいて等級の基準を設定して各産地に示達する。各産地は又、地方格付委員会を置いて中央格付の方針を体して製品の等級を決定する。 日陶連の検査員は委員会の立会と同時に工場毎に製品検査を行なって、合格証紙を交付しこれを製品に貼付させて産地卸商に引き渡すことにしたのである。
政府は公定価格の制定に当たり、芸術品については公定価格は適用しないで自由価格とし、丸芸の表示をさせた。芸術品と一般品の中間に「技術保存を必要とするもの」の分野を設けて、価格の統制から外すと共に、その維持育成のため資材供与の便宜その他の保護策を考えることにした。これが丸技製品である。
佐賀県では、芸術品として有田の松本佩山。技術品として、有田では香蘭社、深川製磁、柿右衛門、今右衛門、満松惣市、川浪喜作、大川内は市川光春、小笠原春一、唐津は中里太郎右衛門が昭和十八年一月二十六日付で指定を受けた。
佐賀県では唯一人丸芸の認定を受けた松本佩山については、有田町史陶芸編から見る事にする。
「(前略)初代松本佩山は明治二十八年(一八九五)九月十一日、有田町上幸平に生まれた。本名は勝治、松本米助の四男である。大正二年(一九一三)佐賀県立有田工業学校陶画科を卒業した。卒業後は各地でいろいろな職についたが、大正九年有田に帰って窯焼きをはじめた。大正十二年ごろには大型火鉢に型紙絵付けを工夫し、昭和三年には本窯釉彩盛り上げ法を完成して翌年特許をとった。昭和四年第十六回商工展に「淡青磁果文花瓶」を出品して入選、同五年ベルギーリエージュ万国博覧会でグランプリを受賞した。昭和七年ごろから佩山を名乗った。(中略)
昭和八年第十四回帝展に入選、翌年も入選した。 同十一年秋の文展に入選してから十二年と十四年を除いて十八年までの文展に入選した。昭和十七年には戦時下において商工省から芸術保存者の指定を受けた。
昭和二十年鹿島市の矢野平八の招きに応じて同市に移住、矢野酒造の工場内に赤絵窯を築いて製作活動を続けた。二十二年日展委員となり、第三回日展に入選、以後第六回(出品せず)を除いて二十七年まで連続入選した。二十三年には矢野酒造の工場内に本焼き窯を築き、有明海の潟土を用いて鹿島焼を創始するなど、意欲的な製作活動を続けたが昭和三十年六十才のときいっさいの展覧会出品をやめた。昭和三十五年郷里の有田町に帰り日恵窯を開窯したが翌三十六年十月八日に没した。」
計画生産の実施に伴い、設備、燃料その他の資材及び労力の有効利用を図り経営を合理化するため、製造業と錦付業を対象とする企業合同の具体策を関係府県庁に於てたてて、昭和十七年一月末までに企業の整理統合を実施せよと商工省が命じたのである。
その結果、佐賀県では四百四の工場が六十六になった。この企業整備によって転廃業する者に対しては、残存業者より共助金を交付し、又、遊休となる設備は国民厚生金庫が買い取る事にした。有田でこの整備令の適用を受けなかったのは、香蘭社、深川製磁、岩尾磁器、有田製陶所、青木碍子、工栄社だったので、当時世人はこれを有田の六大会社と称した。
大戦勃発と同時に対外的な交易業務を一手に取り仕切る機関として官営の交易営団が生まれた。 だが、陶磁器だけは民営機関を残して営団の代行業務を行うことが承認されたので、昭和十八年十二月、各輸出商社の実績を統合して名古屋に資本金三百万円の日本陶磁器交易会社が設立された。社長飯野逸平、専務取締役永井精一郎、有田からは取締役に松本哲雄、監査役に松本栄治が任じられた。
翌十九年三月、上幸平浅井商店の一部を借用して有田支店が開設された。支店長には本幸平出身で当時小倉精陶商会の支配人だった嬉野芳郎が起用された。有田支店の業務は戦争激化と共に減退して翌二十年初め唐津から上海へのジャンクでの輸出が最後になった。
しかし、石炭や労力の不足のため、陶磁器の全国生産額は激減したのに有田地方は依然として活況を続けた。それは時局が要請する軍需用品や金属代用品の製造による。
軍需としては深川製磁の海軍食器であり、青木碍子の鉄心棒代用の木心棒を取り付ける碍子の陸軍納入等であった。
この木製心棒は第二節で記述した原鉄雄の発明によるもので、有田陶磁器会社によって十八年に設立された有限会社有田金属代品製作所(二十年一月株式会社有田精機工作所に改組改称す)で製造して西部軍へ納入した。
昭和十八年、磁器製で金属の缶詰容器に匹敵する機能を持つものとして大日本防空食糧株式会社(社長小沢専七郎)が発明した防衛食器を名古屋の瀬栄陶器が先ず取り上げて製品化した。だが、同社は石炭に恵まれた有田地方で直営で製造すべく有田陶磁器会社の中に支店を設けてその経営を椋露地嘉八に委嘱した。 そこで企業整備で遊休工場になっていた藤津郡久間村の永田工場を直営工場として、これを中心に藤津郡や波佐見の窯元数人を下請工場にし、椋露地が終戦まで管理運営した。
企業整備によって十七年五月に創立された協和新興陶磁器有限会社の専務取締役清水時一は金属爆弾の代用品として磁器爆弾の特許を個人で所有していた。それをこの工場で製造したいと望んだ。だが、社長の竹重忠次が拒否したので、退社して十九年七月、松本哲雄や椋露地豊次の協力で、同時に協和新興を離脱した有田陶磁器会社の製陶工場に日本兵器窯業株式会社を新たに設立した。そして、磁器爆弾の製作に着手した。
だが、高さ一尺以上の大型のため真円に焼成する事が出来ずに困惑していた時、相模海軍工廠が名古屋の瀬栄陶器に発注している陶製手榴弾の製造量が少なく他に協力工場を物色していると清水が聞いて早速手榴弾の製造に切り替えたのである。そして、外尾山の有田陶業有限会社(社長青木俊郎)を協力工場として大量生産に着手したのは、十九年末の事だった。だが、実戦には遂に用いられなかったという。
同じ頃、海軍では、本土空襲に猛威を振るっていた米軍のB29要撃を目的とするロケット飛行機をドイツの技術協力によって開発したのである。呂号兵器と称したこの飛行機の燃料を製造する工程には各種の磁器製品が大量に必要とされたのである。 そこで、メーカーとして先ず耐酸磁器に経験のある日本碍子を筆頭に松風工業、高山耕山、大阪陶業、日本陶管及び有田の岩尾磁器、それに曽根磁叟園、日本タイル、東洋陶器、伊奈製陶、日本陶業、有田では香蘭社、有田製陶所、工栄社、山本火鉢等が協力工場として製作に当たった。
海軍の試験では有田の磁器が最高とされている。又、当時技術中尉で呂号の監督官として名古屋にいた、後年の岩尾磁器社長岩屋煕の話によれば、終戦一ケ月前の七月には有人ロケット機の「秋水」は滑空テストに成功しているが、実戦には遂に登場しなかったという。
昭和十八年中頃、瀬戸の陶業者井上順治の進言によって、中根瀬戸陶磁器試験場長は大蔵省造幣局に陶貨を作って銅貨の回収を図ってはと申し出た。
造幣局では瀬戸の経験をもとにして、京都の松風工業と有田の協和新興陶磁器にも製作させることになった。二十年二月十五日には協和新興の社内に大阪造幣局の有田出張所が設置され、同社々長竹重米雄、同社支配人篠原英男、試験場良一条氏喜司が造幣局嘱託として発令された。 二月二十日、同社は一銭陶貨日産三百万枚とする製造計画書を造幣局に提出してその製造に着手した。だが、終戦後の八月十九日、陶貨製造は命令によって中止されたのである。
あとがき
松本源次
国際色豊にして劃期的な世界・炎の博覧会が開催され、その主会場は我が国で初めて白磁が生まれた有田地区になると決定したのは平成五年であった。その会期中に主会場を訪れる人は百万人を超えると予想されるので、来会者を案内するガイドが必要になるだろう。それは当然地元の人達がボランティアとして当たるべきである。
それにはガイドとしてこの炎の里有田の歴史を十分理解していなければならない。有田には昭和六十一年に完成した立派な有田町史十巻がある。だが、余りにも膨大で読み通すのは無理であるから、要約すべきだという要望に応えて町の生涯学習センターに開設されたのが有田町史常識講座である。 そして、私が非才を顧みずその講師を引受け、三百八十年前の一六一六年の磁石発見によって炎の里有田が起こってから終戦までの歴史を一年に亙って講義したのである。
しかし、来会者の中には炎の里有田の歴史を是非知りたいという人も必ずおられるに違いないから、この機会にそのテキストを一冊の本にしてガイドブックにしようと思い立ったのである。
そして、町に相談した処その協力を得ることが出来たので、本書の刊行になった次第である。
その上に川口町長からは序文まで頂いた。又、装丁の絵は江戸時代初めて禁裏御用達になった名門窯焼辻家の子孫である辻勝喜氏にお願いした。