日本の色絵磁器の礎
●黒牟田地区の窯業
山辺田遺跡の所在する黒牟田地区は、1600年代に遡る有田の窯業創成期から現代まで、途絶えることなく続いてきた窯業地です。 地区内には、近世から近代の窯場跡が5か所点在しており、各窯場跡には合わせて15基以上の登り窯がありました。このうち、最も創業の早い山辺田窯跡は、初期の窯跡のうち旧状をよく保つものとして、他の4窯跡 (天狗谷窯跡・原明窯跡・百間窯跡・不動山窯跡)や泉山磁石場とともに「肥前磁器窯跡」として、 国の史跡に指定されています。 しかし、今日、この山辺田窯跡が注目を集めるのは、むしろ1640年代の日本の色絵磁器成立において、中核的な役割を担った窯場としての位置づけです。現在では、「古九谷」として伝世する大皿類等の多くが、この窯場の製品であったことが判明しています。
●山辺田遺跡の概要
山辺田窯跡は、成形後の製品を1,200℃ほどの高温で本焼きするための窯で、絵磁器はその後工房内で上絵付され、 赤絵窯と称される小規模な窯で800~900℃の低温焼成されて完成します。 そのため、山辺田窯跡では色絵素地は大量に出土するものの、 色絵を付けた完成品はほぼ出土しません。 したがって、色絵素地と伝世品の「古九谷」 の比較では、客観的に山辺田窯跡製とするにはやや根拠に乏しい面もありました。
ところが、平成4年度に山辺田窯跡の位置する丘陵の南側に接する平坦な耕作地で、工事中に偶然色絵磁器や素地が多量に出土したのです。 そして、平成10年度の宅地造成に伴う事前の発掘調査で、 柱穴などが並ぶ複数の建物跡とともに多数の色絵磁器や赤絵窯の構築部材などが出土し、付近一帯が工房跡である可能性が高まりました。 続いて、平成25年度~27年度には、色絵磁器創始技術の解明のため3回の発掘調査が実施され、 赤絵窯跡など工房関連の遺構や乳鉢をはじめとする製作用具、 1,000点を超える多量の色絵磁器などが出土し、やはり山辺田窯跡に関わる工房跡であったことが明らかになったのです。
●発見された遺構と遺物
山辺田遺跡の遺構の種類としては、柱穴などを伴う複数の建物群とそれに付随する各種窯業関連のものです。 製上関連では、河川に設置した唐臼で粉砕し白砂状になった陶石を保管した場所や、その自砂を水して泥状になったものを入れ、さらに水分を抜くためのオロ (土壌)などが発見されています。また、成形の工程については遺構は発見されていませんが、ロクロの天板(鏡) の中心に差し込んで心棒を受けるための陶器製の軸受け(戴)やロクロ上で製品を削る際に用いる湿台と呼ばれる陶製の道具類などが出土しています。 また、絵付に関する道具類としては、呉須や上絵具を擦る乳棒や乳鉢が、 使用により摩耗した状態で多数出土しており、 乳鉢の中には赤絵具が入ったままのものも見つかっています。 さらに、赤絵窯については、地表面から上部が完全に削平され窯本体は原型を止めていませんでしたが、周囲から窯の構築部材が多量に出土しました。 赤絵窯は円筒形の本体の片方に、 方形の薪の焚き口を付ける構造で、古来より日本で使われてきた素焼き窯を改良したものです。 素焼き窯との違いは、 赤絵窯の方は窯本体が外窯 内窯の二重構造になっていることです。18世紀以降の赤絵窯では外窯と内窯は一体構造として造られましたが、17世紀の赤絵窯では内窯は取り外し可能で甕状の形状をしていました。
この遺跡で生産された製品としては、当然ながら、 山辺田窯跡の出土品と共通するものが多量に出土しています。 山辺田窯跡の素地に色絵を付けた製品も多く、五彩手や青手様式の中皿や大皿も多く出土しました。 また、製作上の手本とした可能性のある祥瑞碗など景徳鎮製品や漳州窯製品などの中国磁器のほか、美濃の桃山陶である鼠志野の皿なども発見されています。
令和2年3月 有田町教育委員会