天狗谷窯は有田焼の創業期を代表する江戸前期の窯です。有田焼の陶祖とされる李参平(初代金ヶ江三兵衛)や家永正右衛門など有田焼の創業期に活躍した陶工が関わった窯と伝えられています。
有田焼の礎となった原料産地である泉山磁石場の発見の後、有田が磁器生産を本格化していく段階の最初期の窯の一つです。
昭和四〇~四五年にかけて行われた発掘調査は、有田焼など肥前の近世陶磁器の窯跡における初めての学術的発掘調査でもありました。この調査によって少なくとも4基(古い順にE窯、A窯、B窯、C窯)以上の登り窯とそれに伴う物原(失敗品の拾て場)が確認されています。最も古いE窯の開窯が一六三〇年代頃であり、最も新しいC窯が廃窯する一六六〇年代頃まで、三〇~四〇年間ほど操業されました。
有田焼の基礎となった窯であり、有田はもとより国内の窯業史上においても重要な窯です。その歴史的重要性から昭和五五年三月二四日に史跡肥前磁器窯跡の指定を受けました。
江戸時代、有田焼の海外輸出が盛んになっていく1660年代頃に天狗谷窯は廃窯になりました。それまで上白川(天狗谷窯)、中白川、下白川の三ケ所にあった白川の窯場は統合され、下白川窯のみとなりました。大量貿易時代を迎えて、窯場の再編が行われ、天狗谷窯の開窯に関わったとされる金ケ江三兵衛家も上白川から稗古場へと移転しました。
下白川窯ではヨーロッパ向けの輸出品を含めた優品が数多く生産され、江戸後期には焼成室数が二十室を超える長大な登り窯で操業されました。幕末の頃の姿は安政六年(1859)『松浦郡有田郷図』にも描かれています。
そして、江戸後期の白川山では代々の深川栄左衛門が窯業を営んでいました。特に八代深川栄左衛門(1833~1889)は進取に富む有志らとともに香蘭社を設立し、有田焼の近代化に大きな功績を残しました。
天狗谷窯跡は昭和四〇年に窯壁の一部が発見され、その年の秋から始まった三上次男(当時東京大学・青山学院大学教授)、倉田芳郎(当時駒潭大学助教授)両氏の指導による発掘調査によって、初めて全貌が明らかになり、昭和五五年には国指定の史跡になりました。
その後、天狗谷窯跡を保存するために公有化をすすめました。まず昭和六二年度に登り窯の窯跡が発見された藤本暉次氏の土地を購入し、さらに平成十年度には窯跡だけでなく、景観保護のために史跡に指定された周辺等の大半の土地を所有されていた深川恒行氏の土地の公有化を行い、その御理解と御協力により、保存整備事業が本格化することとなりました。
天狗谷窯跡の土地を今日までお守りくださった方々、白川の住民の方々、深川氏をはじめ保存整備事業に御理解、御協力くださった関係各位に厚く御礼申し上げます。
登り窯の最下部に位置する、焚き起こしのための燃焼室です。
薪を投げ込む焚口(たきぐち)が正面に一つだけ設けられており、焚口に向かってすぼまる船底形をしています。
胴木間の基本的な形や構造は江戸時代を通してあまり変わりませんが、近代になると焚口を複数もつものが現れ、構造が変わっていきます。
天狗谷窯ではA窯とB窯の胴木間が確認されています。床面には炭や灰が堆積していました。A窯の胴木間の奥壁幅1.7m、奥行2.0m、B窯の胴木間の奥壁幅2.2m、奥行2.6mです。