肥前国(佐賀県)有田の磁祖。
いわゆる李参平のこと。
しかしこの名は後人の称するもので古文書には見当たらないようです。
朝鮮忠清道金江の人。
1597年(慶長二)豊臣秀吉の朝鮮の役に鍋島直茂が出征し凱旋した際、直茂の臣多久長門守安順が連れて来たのであります。
泉山の石英粗面岩すなわち磁器原料の発見者で、わが国最初の磁器創製者。
有田陶業の今日あるのは彼の余徳のためであります。
彼は初め安順の居所に近い小城郡多久(多久市)の今日の高麗谷にいましたが、のち松浦郡有田郷乱橋(西有田町曲川)に移って製陶しました。
乱橋時代の陶器はその窯跡からの出土品をみると、赤味のある土の上に白泥で無雑作な文様らしいものを描き、高台は片薄で、高台内にちりめんの出た土焼で、磁器ではないようです。
のち泉山磁器原料を発見すると有田白川の天狗谷に登窯を築き磁器焼成を始めました。
その発見年代については諸説がありますが、ほぽ元和(1615-24)から寛永(1624-44)初年の頃であったろう。
当時の有田の地は奥深い山間のわずかにm畑の点在する荒涼たる一寒村でありましたが、この白磁鉱の発見により開業の端緒を得て今日の大窯業地となりました。
こうして三兵衛は故郷の地名金江をもってその氏となし、以来金ヶ江氏は高麗陶工の長たるべきことを多久氏から命ぜられ、1773年(安永二)にはさらに扶持米の給与がありました。
また泉山磁区のうち境目という所の採掘を特に許可されるなど子孫の受けた余徳もはなはだ大きいものでありました。
三兵衛は1655年(明暦元)8月有田上白川において没したといいます。
その墓は有田町稗古場区報恩寺後方の谷間にありましたが、1918年(大正七)5月金ヶ江家累代の墓所近い景勝の位置に移し、報恩寺の墓跡には李参平顕彰碑を建立しました。
碑は花肖岩有田蓮華石、碑文は千住武次郎の撰にかかります。
[金ヶ江家家系]三兵衛-二代三兵衛(1704、宝永元年正月26日没)-三代惣太夫(1724、享保九年2月没)-四代三兵衛(1764、明和元年10月没)-五代三兵衛-六代惣太夫(1806、文化三年10月没)-七代三兵衛(1835、天保六年7月19日没)-八代惣太夫(1860、万延元年4月21日没)-九代三兵衛(1856、安政三年没)-十代儀三郎(1884、明治一七年5月21日没)-十一代米助(1909、明治四二年10月2日没)-十二代儀兵衛(『有田陶業史』『日本陶磁器史論』『有田磁業史』)